「いじめられた側を取材できていれば、、、」?

昨夜、ネットでうっかり拾い読んだ記事が酷くて寝る前にむかむかした。

例の「スカトロみゅーじっしゃん」(と勝手に私が名付けた)のいじめ記事で

「あの企画は90年代で~」「いじめをされた側にも取材をしていれば~」

「いじめをされた側に取材を申し込むと断られてしまって企画はなかったけれど」

セカンドレイプにならないようにもっと信頼感を積み上げてから取材すれば」

などなど、「あのみゅーじっしゃんが悪いんじゃないもん!」と言いたいわけで、

セカンドレイプにならないように信頼感を」と言っても

要は「あれはいじめじゃなかったです」をいじめをされた側に言わせたい、

取材に応じなかった時点でいじめられた側の答えは出ているというのに、

それに気がつかないふりの「ライター」って「ゴミ」じゃないかな。

久々に怒りが脳天まで突き抜けたわ。

「いじめ」を受けた側が「一生許さない、〇ねばいいのに」と

取材で言ったとしたら「やっぱ、こんなやつ、いじめられて当然じゃん?」と

せせら笑われるのが落ち、

許されないことをしてきたのに許されると信じてへらへらして

「取材!」なんてやってきてる連中の「ネタ」にされるのを

「いじめられる側」は受け入れないといけないものか。

そこまで「いじめられた」人間は馬鹿にされるべき存在なのか。

なーにが「セカンドレイプになるといけない」じゃ、

もうすでにセカンドどころじゃないいじめを続けまくっているというのに、

そこまで大事なみゅーじっしゃんなら、箱にでも入れて閉じ込めておけ!

外に出すな!の意見しか出ない。

ここまでいじめられた側の人権が無視される事件もないかもしれない。

いじめっ子が良家のご子息で有名人であるが故に

「あのいじめは、実はいじめじゃなかった!」にしたい人が山ほどいる。

「いじめじゃないよな、な、な!」と力技でいじめられた側にやりたい、

ここまでおおごとにされてしまっては、いじめられた側が求められる「答」は一つ、

「いじめと思ってません!」だけだ。

そこからいくらでも無理やりな「物語」が作られそうな不愉快な気配。

彼の係累はよほどすごいんだろう、かつてもそれでお咎めがなかった。

今回もそういう形で終息させたい。まったく、この世は地獄か。

私もかつていじめられたクチで、

今もいじめた連中をかけらほども許したことはないし、

いじめた連中が不幸な死に方をしたら

大いに溜飲が下がる人間であることを自分に許している。

実際、いじめをした人間の中にはすでに悲惨な死を迎えた奴もいる。

「ふんっ!」としか思わなかったわ、

へぇ、まだ生きてたの、くらいにしか思わなかった。

それほど中学時代にされたいじめは不愉快だった。許すなんて甘い感情はない。

「自分もいじめを受けていて~」といじめをやった連中は必ず言うが

だからそれがなんだよ、〇ねよ、くそが、と、私は大人げないんで繰り返すな。

人間は、自分にプライドを持つために、許さなくて良いこともあるのだと、

いい年になった私は考えている。

しかし、それすらもかつて「いじめられた」人間には許されていないのか、

許すなんてことは、さほどの価値もなく、実のところ大騒ぎになって

金儲けの邪魔になるので「許し」だのなんだのと言ってる連中が

山のようにいるんだと改めて思うのでした。

本当に係累が良いんだね、スカトロみゅーじっしゃんは。

いやもう、本当に不愉快。おわり。