ヘニング・マンケル「流砂」メモ。

ヘニング・マンケル「ヴァランダー」シリーズも残すところ

最近出た「手」のみになり、現在、彼の最後のエッセイ「流砂」を読みかけている。

これが長く、重い。かなりヘヴィーな内容で、読むのがつらい。

翻訳者の方は褒めておられるが。

読んだ中で印象に残ったものを一つ。

58話目の「嫉妬と恥」で、マンケルが自身が末期がんで余命宣告を受けるずっと前に

もし、当時はまだ不治の病だった「エイズ」にかかったとしてどうするかを

知人に聞いた時、少なからずの人間が

「ほかの人間にうつしてやる、一人で死にたくない」と言ったそうで、

「自分が死ぬのにほかの人間がまだ生きていけるのに耐えられない」と、

「これが嫉妬だ!」とマンケルは看破して、私もこれぞ人間だと感心するが

私だったらどうか、そこまでの貪欲さはない気がする。

恐れるのは死に至るまでに味合わなければいけない苦痛のみで、

それ以外は頭に浮かばないんじゃないか、

私は人間性を奪うというがんの痛みをひたすら恐れる。

それが凡人の限界ではないのかな。

嫉妬の念はおそらくは人としてのパワーが有り余る人が

人生最後においても持ち続けられる生への執念で、その発想を持ち、

他人に話せる人は相当な人間であると思われる。

マンケルはその発想を「グロテスク」と評し、

その「嫉妬」は、親が子供にまで若さを嫉妬する話に続けていく。

これも理解できなくもないが、

私の場合、若さへの執着は身体の節々が痛くなかったとか、

自身の不具合に関するもののみで、あまり「若いころは良かった!」がない。

若いって気の毒、と思うことが多々ある中高年のプロなので、

子供に嫉妬することは.ない。昔も今も変わらず「若い」はつらいことが多い。

私が今、死を宣告されて一番苦痛に思うのは死に至る痛みだが

その次は、自分がしなければいけないと思っている

「義務」が果たせなくなることではないか、

子供の面倒を見たい、親をちゃんと見送りたい、配偶者の世話をしたい、

孫の面倒も見てやりたい、この手のいま「当たり前」にできる、

やるつもりの「義務」が一切できなくなる苦痛は計り知れない。

人間は「義務が好きだ」は本当だ。

ネットで時々「何者かになりたい!」の執着が話題に出て

それを持つ人間は相当自分に自信のある人間ではないかと推測していたが

ひるがえって、そこまで「何者か」に執着心がない私、およびほとんどの一般民は

執着心も嫉妬の念もさほど強くない、でも義務は好き、で

「義務が好き」なのはそれがなければほぼ自分が何もなくなるからなんだろう。

マンケルは「嫉妬」に「恥」を結び付けて書いたが、

私のような一般民は嫉妬が強くないように恥の念も強くない。

それが良いとも悪いとも言えず、ただ「生きる」力の違いが

マンケルのようなパワフルな作家の生涯最後においても顕著に見えると

思ったのでした。人の遺言を読むのはしんどい。

翻訳者の方は褒めておられて、

それはマンケルより翻訳者の方が年上だからではないか、と思ったり。

先に去り行く人の言霊が年下のものであるとそこまで響かないものかもしれない。

おわり。