雑記。

昨日、朝日新聞でネットでも話題になっていた大阪の母子死亡事件の詳細記事があって、ネットでは「夫側のDV」が取り沙汰されていたものの、
記事ではそういうことはなかったようで、この事件は「心の病」が関わる悲惨な事件じゃないかと涙。
これは、母親が生きていれば同じく大阪で起こった「2児遺棄死事件」であったかもしれなかったりして。
あの事件も悲惨そのもの、いろんな意味で関係者を気の毒に思う。
心を病んだ人間を家族に持つ不幸というのは計り知れないものがある。
特にそれが「子供」だった場合の親の悲惨はこちらも親であるがゆえに身をつまされる思いをする。
知り合いの公務員カップルの大変出来のいいお子さんが中学生の時に発狂して、大学生の年齢である今も専門病院を行ったり来たりしているのだけど、
そのお子さんは女の子で、何故か特に母親に当り散らす、というよりは罵り狂うらしい。
「お母さんのせいで私がこうなった!」と、
専門病院の診断によると、育て方や、環境の変化でこうなったわけではない、と、
身の置き所がないほど辛い思いをしている母親に言ってくれるものの、それで気が楽になるわけではない。
たまに退院してきたとき、家にいるあいだ中、ずっと母親について回って罵倒し続けるようだ。
多分その母親への執着心は愛情の裏返しで、それを母親もわかってはいるものの、やはり面と向かって
「私を何故生んだ」「なぜ、お父さんなんかと結婚した」などと言われるようではたまったものではない。
その家庭には弟もいて小さい頃は黙っていたものの、大きくなると、苦しむ母親を見かねて姉を罵り返すこともある、と
聞いていると涙なしではいられない。病気の本人も気の毒だが、それを迎え入れる「家族」もさらに気の毒だ。
大阪の母子事件はひょっとして、亡くなった母親にどうしようもない心の病があって、家族はそれをどうすることもできなかった、
結婚した夫にもどうにもできなかった、そんな事件じゃなかったか、と、考えたりする。
ネットで、時々異常なほどに母親に執着して罵る記事を見ることがあるが、知り合いの話を聞いてから、その手の話の信ぴょう性を少々疑うようになった。
心の病による罵倒は、的を射ているように見えることがあるからなあ。
先日、朝日新聞で是枝監督の「誰も知らない」の制作話で「母親が本当にひどい人間だったなら子供たちはいつまでも親を待ったりしないはずと思った」と
監督が話したのを読んで、執着される親というのには、やはりどこか「魅力」がるのかもしれない、などと、
罵倒という執着から離れられない子供たちを見かけると、かつて罵倒の対象に愛された記憶がいつまでも忘れられないのかも、と思ったりする。
「フツー」の子供必ずいつかは親を見放すからね。
年をとると、一方的に誰かを罵倒することはできなくなるものだ、と思う今日このごろ。
それがいいのか、悪いのか。まだよくわからないなあ。