東洋経済新聞の「偏差値40の中学」記事は、
私立もどんどん子供の数が減って大変なんだろう、の感想しかないのだけれど、
特に都心の「私立」は「安全!(かも)」を買う、
就活や婚活ビジネスに少額の掛け金をだまし取られる構造と同じかと思わされて
少額でも金を払えばなんとなく「安心」するのを否定する気はないが
いつまで親が金で子供を守るを続けられるか、
就職まで面倒見ないといけなくなってもよいものかね。
娘たちを一定以上の大学に通わせると、
驚くほど偏差値は「買う」構造になっているのを知るが
娘たちは大学でもいつの間にか、自分たちと似たような
公立育ちで「ぎりぎりまで部活やってたけど、現役で合格しました!」の
本物の高得点偏差値保持者たちと集まっていた。
彼らは悪戦苦闘しながら就活も自力で乗り切り、仕事も難なくこなしていく。
こういう子供たちが最終的には本物の勝ち組になっていくけれど、
一方で親が継ぎ足して偏差値を「買って」やった子供たちは
全員ではないもののいずれやや遅めの「挫折」を味わうことになる。
就職してからの挫折は本人にとっては深刻に辛いだろう。
そこから自分の本物の人生が始まるけれど、耐えられる子供はどの程度いるのか、
なんとなく「出来が良い」気分でいた人にとっては社会の厳しさは
ことほのか辛く感じるのではないか。
先日、両親が東大卒のお子さんがそこそこの私立一貫校に通って1浪までしたのに、
日東駒専にしか受からず、親はある程度諦めていたものの、
本人がかなりショックなようだ。私の学生時代、知り合いの京大生が
「僕の学校から早慶なんかに行くと恥ずかしくて同窓会に出られない」と真顔で言われ
これが名門私立の価値観か、と驚かされたことがある。
ある程度以上の私立中高に行くと本人が「結果を出さねば!」とあがいて
それでもいま一つであった場合、野育ちの公立出身者より深く傷つく気がする。
子供の教育を選ぶとき、どこまで何を与えられるか、
親がどこまで何を「買って」やれるか、を考えるのは非常に重要じゃないか。
どこまでも金を使う!人間たちは天井知らずに存在し、
少額の課金では追いつかない現実を言葉の世界では誰も語らないこの不可思議。
情けない。おわり。