雑談。

正月明けからばたばたして、今がいつなんだか、何処にいるんだか、

よくわかっていない状態。

正月開けてすぐずっと闘病生活をしていた70代の親戚が亡くなり、

年明けまでもつかどうかといわれつつ、よくがんばった、

そのあと、今度はまた別の70代の親戚が突然死して

好きなことをしている最中にぽっくり行くという、

本人にとっては大往生だけれど、

近しい身内にとっては悔いの残る死である事よ。

生も死も、なかなかに難しいと思い知る今日この頃。

世間一般では「生は選べないが、死は選べる!」

とご高説をのたまうやからが多いようだが、

私は実は「生も死も選べない」が真実ではないかと思っている。

「死」が選べるものだとしたらたぶん「生」も選べるものであるのだよ、

この一見非対称的な事象は実のところ、

選択肢を個人が持てるようなものではない、

それがやはり「生きる」ことで、いずれ「死ぬ」ことではないかな。

ネットではやたらと「尊厳死」「安楽死」が美化されて、

「個人の意思がぁ!」と意識高く発言されているものの、

死ぬのに他人の手を借りなければいけない限り、

そんなに「尊厳死はすばらしい!」と言うものではないよ。

と言うか、どのような死であってもやはり他人を煩わせるものなのだよ、

それが孤独死であったとしても、その後始末は他人にゆだねられる。

以前、西部氏が自死したとされたが、

結局はその死に手を貸した人間に迷惑をかけることになった。

それを思い至らない時点で、もう既に彼が死を決めたとき、

平常心ではなかったのだよ、精神の安定を欠いていた。

年を取っても清明な判断が出来ると考えてはいけないのだよな。

他人の死を見送る、とはそれを思い知ることであると今は思う。

そしてよれよれになりつつ、それでも生きる90代は立派。

生って、そういうものだと思うおばはんがここに一人。

遅ればせの奥様新年会(?)に今日は行って来るざんす。