甘いとくずい、

は同質だな、と思わせる新幹線事件の続報。
「加害者に居場所があったならば!」なんてので同情して納得できる人間性が「逃げるが勝ち」と思わせるのだよな。
どんな居場所があったとしても、屑は屑なんだと言うのは、なかなか発言できないことではあるんだが、
それを認められないほどに、人間はどうやら弱いらしい。
どれほど出生前診断が発達したとしても、一定数の障害を持つ人間は生まれる現実と同じく、
どのような状況下におかれようとも、結局狂ってしまう人間は出現する。
それを「環境が」「居場所が」と自分に都合のいい解釈を一般化するために奇妙な物分りの良さを持ち出す人間の
甘さと屑さには反吐が出る。なんだ、こりゃ、としか言いようがない。
この手の妙に感傷的な「加害者だって被害者だ!」みたいな、どこで教わってきたその決まり文句、を繰り返す連中が、
結局のところ、狂った人間を何度も社会に放ち、被害者を増やす。
どこかで考えることをあきらめているのだよ「環境がぁー」だとか「いばしょがぁ」ってので。
発達障害があろうがなかろうが、たいていの人間は殺人は犯さない。
簡単に殺人のハードルを越える人間は、たぶん何をしたところで、同じことをする。
それに目を瞑るのはいい加減にやめないか、と私はしみじみ思うが、
たぶん弁護士が接見した時点で、無罪放免を求めて、テンプレートな言い回しが使われるようになるんだろうね。
まあ、一番は「親の育て方が」と言うわかりやすさで片付けられるんだけれども。
ただ、私はこの手の子供は極普通の親がまともに育てられるタイプではないのはわかる。
投げ出したのは投げ出さざるをえない子にしか育たない、と親が一番初めによくわかってしまったからなんじゃないかな。
自分たちには無理、じゃあ、多少血のつながりが遠い親戚とならばうまくやれるのかも、で手放しても、
引き受けたほうも放り出す。「屑」と言うのはひどい言い方だと思うが、屑としか言いようのない人間はやはり出現するのだよ、
屑の居場所は殺人現場、で、その現場を提供するのは誰か、ってことになる。
「私の居場所は自分が無敵の気分になれる人が殺せるところです!」と、今回の事件の加害者が発言して、
じゃあ、どうぞ、と提供しますかね?「いばしょがぁ」とアホの一つ覚えでいえる人間は、それを容認するってことですよ。
以前、知的障碍者施設で何人もの人間を殺戮した男がいて、
彼にとっての「居場所」はやはり絶対的力を振るえる殺人現場だったんだろうと、私は思っている。
この「力を振るう」が楽しくてしかたがない、そういう人間はどうしても出てくるんだよ、
こういう人間にそこ以外の場所を提供しても、どうにもならない。
私は「出たら同じことを繰り返す」の加害者の言葉が恐ろしく現実的に聞こえる。
「他人を害することに喜びを覚える」、これが異常に発達した人間は、どのようにしたところで、出てくる。
「環境が」「居場所が」のぬるい言葉で容認するのは、暴力を見逃すことだと思うが、理解できる人は少ないんだろう。
物分りの良さは、くずいと同じだ、それ以上考えることをやめている。
「かわいそう!」を超えないと、理性的な答えはでない気がしているが、
いつ超えてくれるのやら。
私は被害者とその後家族がどこの誰よりも遥かにかわいそうだと思う。
加害者の環境なんかより、遥かに。
先日、二人も少女を殺した人間が、出所して、やはり少女に手をかけている。
それをするのが彼の「居場所」作りだから。それを容認できるのか?と言う話。