なーにが「逃げる勇気」じゃー!!!

「男性にも逃げる勇気を!」ってブコメを見てむかむか。
じゃあ、新幹線の事件で女性をかばって犠牲になった男性には「逃げる勇気がなかった」とでも?
逃げる事も出来たのに、逃げなかった人の立派さをあいまいにする言い方はやめて欲しい。
私はこの手の「詭弁」にしか見えない言い回しが大嫌いだ。憎悪さえ覚える。
この言い方には、命を落とした人の勇気を削ぐ響きがあって「自己責任」論の胡散臭ささえ漂う。
もし、この犠牲になった男性が立ち向かわなかったら、犠牲者はもっと増えていたかもしれない。
少なくとも覆いかぶさられてめったざしにされていたのは、怪我をしたまだ20代の女性だったかもしれない。
若い女性が若い男にめったざしにされると、
ネット上では「女が腹が立つようなことを言ったに違いない」の声が必ず上がる。
それをさせなかった犠牲者の男性の勇気は、どれほどすばらしいか、何重にも女性をかばっている。
この行為を見て、「逃げる勇気を!」をわざわざ書くのは何かをごまかしている。
たいていの人間は逃げることしか出来ない、逃げるのは勇気がなくても出来る。
「勇気」の言葉を安易に用いるのは、「勇気」の本当の意味を失わせる。
たとえば、今回の加害者は「一人で死なない勇気を持っていた!」とか
「人を殺す勇気を持っていた!」なんて言い方すら出来てしまう、
それは本当に「勇気」と呼べるものか。
車両に男性が一人しかいなかったとは思えない、乗り合わせていた多くの男性は「逃げる勇気」盛り盛りだっただろう、
そのことを責めるつもりはないが、それを「逃げる勇気」などと「勇者」扱いするのが許されるのか、
私だってもちろん、逃げるしか出来ない側の人間だ、でもその行為を「勇気」とは思わない。
ただ申し訳ないと思うばかりだ。
「逃げる勇気」などと言うのは、人間として最低のことではないのか。
その感覚が、ある種の人間には欠けている、うがった事を言おうとして内容がまるでない。
秋葉原の事件で加害者・加藤を妙に持ち上げる輩がいるが、それと似た響が「逃げる勇気」なんて言葉にはある。
犠牲者に本当の勇気があったからこそ、加害者も一人の犠牲者しか出さずに済んだ。
秋葉原の事件でも、助けようとした人がいて、犠牲者があれ以上増えることはなかった。
「勇気」とは、加害者の罪をも軽くする行為であることだ。
たった一人で、傷を負ってすくんでいる女性たちの前に立ちはだかる行為だ。
それがわからない人がこの世界には多すぎる。