雑談。

「悲しいことがあると、開く「他人」のインスタグラム」(ユーミンの「卒業写真」で)
と言うわけで(?)私は他人のインスタグラムを見るのが大好きである。
他人の幸せ、てんこ盛りの写真を見ていると、なぜか癒されるのだよね、、
美術館に絵を見に行くのの劣化版か。
きらきらインスタグラムに関しては、賛否がとかくあるようだけれど、
私は幸せを切り取った宝物箱を見せてもらっている気でありがたく眺めている。
以前は、ツイッター群のキラキラ写真を眺めていたが、
添えられる言葉の端々に他人への見下しが見え隠れするのにうんざりしてインスタに乗り換えた。
インスタグラマーが何を考えていようと、とりあえず、見せたい写真は幸せの瞬間、
もの書くネットの世界では、やたらと「こんなに不幸!」「かわいそう!!」で人を集める手法が確立しているが、
本当に、人間は「不幸」のほうに強くひきつけられるものかとインスタを見ていると考える。
実はやはり幸福で美しいものについて行く人間のほうが遥かに多いんじゃないかな。
言葉の世界と映像の世界の違いは、そこにあるか。より良きものに魅せられるのが、人間。
私が好きなのは、若いお嬢さんたちの「プレ花嫁」タグのインスタグラムで、
これほど純粋に幸せを切り取ったものはないような気がする。
将来への夢や希望をこれでもか!と積み上げている、こういう瞬間が、人生には必要なのだよね。
そしてインスタグラムにも人柄が出る。
同じような「物」を写しているのに、つまらない写真はあって、その理由がどこにあるか、
たぶん、あまり楽しんで写真を撮ってない、義務感からやってるがあるんじゃないか、
自発的に「これ、みてみて!」と言う「キラキラ」感がなくて、
なんとなくやってる、ってこの手の世界では役に立たないのかも。
競い合う夜の蝶々さんたちの戦利品や、結婚間近のお嬢さんたちのふわふわした日常や、
私にかかわりあう事のない人の満足や幸福の瞬間をわかりやすく見せてもらえるのは
落ち込みがちな日常を過ごすおばはんにとっては大変ありがたい。世界はまだ幸せに満ちていると信じられる。
他人の幸せを眺められるのは、楽しいことだ。