昭和の残滓。

昨日、倉本聰の妄言を読んで、こういうことを言い出すなら、
60で早めに死にたい、と思うのも、あながち間違いでもないかも、なんて思ってしまった。
老害」の破壊力、恐るべし!
なぜか、私が見たこの人の作品は、若いけなげな女性が既婚男性に尽くして耐え忍ぶ、ってなものが多く、
正直、嫌いで仕方がない。
何故、こんなに「耐える女」を典型で描けるのか、妄想を爆走させてんじゃないよ!といいたい。
ブコメも批判的なものが多く、早めに人生を「撤収」したほうがいいんじゃないの?この人、と私も言いたくなる。
ま、私の親世代なんだけれどね。
半世紀、生きて、しみじみ思うのは、未来が暗い、と言って呪えるのは、それまでの人生が順調だった人だという事実で
とことん、下に落ちた人間は、これ以上の暗さを経験するのは嫌なので、明るい展望を持つようになる。
だって、絶望しても希望しても、どうせ生きるのは一緒だものね、ならば希望は持ったほうがいいだろう。
私は自分にいくらでも絶望してもいいと思っているが、その絶望を他人に投げつけるのは、どうかと考えている。
自身の失望、絶望はあくまで自分のものであって、他人や社会のものではない。
社会が自分の思い通りにならないからと言って呪詛の言葉を投げつけるのは間違いだ。
しかし、悲惨な過去を経てきた現在でも、人は呪詛の言葉に弱い、たいていのマーケティング手法は、まず人を脅すことからだ。
「あなたは就職できないかもしれない」「結婚できないかもしれない」「子供が出来ないかも」などなど、
そうやって人の不安を煽って「お布施」をねだる。
私はこの方式はいい加減どうにかしないといけないと思っているが、この手の年寄りが死なない限り、なくならないだろうな。
ただ、私はこの親世代の失望、絶望感は、彼らが若かりしころ、戦争を経験したことに起因していると考えている。
若いころに「みんな、一緒に死ぬんだ!」と覚悟をさせられた経験は、悲惨以外なにものでもない。
小田実だったか、繁栄した都市にいても、突然、焼け野原になった町の光景が浮かぶ、と書いていた。
それほど、焼けた町で育った人間の心の傷は、深い。
それを乗り越えるのが、年齢だと私は思っていたが、この年齢になると、それも難しいことを感じる。
年をとると、なぜか、幼いころのことばかりが思い出されるようだ。
それはそれで幸福であるはずが、戦時中と言う悲惨な時代に生まれ育ったばかりに、思い出すのは悲惨ばかり、
ならば、絶望しても仕方がないか、衰えるって悲しい。(涙)
それにしても、インタビュアーはいくつくらいの人間か、案外アラサーくらいだったりして。
アラサーが他人を脅すために大年寄りを引っ張り出してくるのなら、なかなかに世界は狡猾だ。
狡猾な世界は、それなりに進歩しているので、悪くないんじゃないかな?
自分たちがついていけない世界は滅びろ、と言ってはいけない、いまだ私の親世代は、何事かを教えてくれる。
そのありがたさをかみ締めながら、でもやっぱり、このいいようはないわな、と思うのでした。
去り行く世界は美しいが、まだ見ぬ世界も、また美しい、それを見ることが私にかなわないとしても。