かぞくのきろく。(おわり)

現在、連絡してくると言えばいつも大学の研究室からの下の娘は大学に入ってもまだなお
「数学が驚異的にできる、女の子なのに」と言われている。
実際、工学部で大学院まで進む女子がさらに少ないのは、大学で数学についていけないからのようだ。
曾祖母の時代から100年以上たっても女性で数学ができるのはまだ数少ない。
曾祖母が「和算」まで出来た!と言うのは、かなり珍しい話なんだろう。
年をとってもあっという間に暗算を正確にやってのけたそうなので、
その「数才」が数世代を超えて私の娘に現われたのは本当に「遺伝子」は不思議。
記憶を整理するために書き残してあらためて思うのは、父方の祖母が実の父親の家からほぼ見捨てられた存在であったのと同様、
母方の祖母もまた、子供時代からの婚約者が結核で亡くなったがために生家から切り捨てられるような存在であったことなど、
そんな母親の子供たちが結びつくとは、育った環境がどこかしらにているもの同士が家族になると言うことか。
何かと話題の高須クリニックの院長は「人間は遺伝子の乗り物」といったそうで、その表現は適格だと私は思っている。
時々、私の父が顔をみたこともないその祖父の血を継ぎアルコール依存症を発症させたりするのは困ったものだが、
40前後でなくなった曽祖父と違って、父は還暦をとっくに過ぎてだったので、まだ家族は助かった。
遺伝子は少し、進化している。
一方、数学がからきしの私から生まれた娘の「数才」は明らかに私の曾祖母譲りで
それでこれからどこまでいけるかはわからないが、遺伝子の乗り物としてどこかに行き着くだろう。
私は「結婚してもわたしが望めば子供は作らなくていい!」の考え方にどこかで懐疑的なのは、
遺伝子の乗り物の動きを一世代で止めていいものか、
確かに悪いものもでてくる可能性はある、でもより良いものがでる可能性もある。
そしてそれがなければ世界はよくなっていかない。
私は曾祖母のころに比べれば格段に世界はよくなっていると考えている。
曾祖母は本当に優秀な人間であったが故に、与えられた困難な人生を何とか乗り切って自身を幸福に保つことが出来たが、
過去、多くの人間が悲惨な人生を押し付けられて抗うことが出来なかった、そのころに比べればまだ現在ははるかに「マシ」だ。
「昔は誰でも結婚できた!」なんてのは幻想で、女性は意に染まない結婚をさせられたが、
金のない男性はもっとあからさまに結婚が出来なかったのが現実だ、それであざけられるのも当然の時代でもあった。
そこをまるで現在の人間が無視してしまうのも「歴史修正主義」と言えるのかもしれない。
現在の少子化は結婚よりもむしろ子供を持ちたがらない人間が増えたせいで
それがフェミニズムとかかわっているかどうかは私にはわからない。
ただ、赤の他人と縁があって結びついたのなら、そのお互いの遺伝子を動かしてみないか、と私は思う。
様々な家族の記録がまた生まれる。続く記録は希望でもある。