人生、雑談。

テレビをつけたとき映った番組のテロップに「更年期障害になると25〜6歳のころを後悔する」とあったので、
どれどれどんな話じゃ、と「更年期障害症状マニア」の私は座りなおしてみたものの、
更年期どころか「お迎え」が近い微妙な年齢さば読み「超・おばはん」たちが
「あの時「やって」りゃ良かった、って必ず思う」としたり顔で言うのを聞いて、そっと消す。
若いときに周囲をあきれさせるほど「やって」きた人間ほど「まだ、まだ、もっと、もっと!」といい募る。
これを「業」と言うのか、「呪い」と言うのか、私には見当がつかないが、
やればやるほど、まだ足りない部分が見えてくるんだろう。
昔の知り合いに、この人ほど激しく遊ぶ人を、私は現在になってもまだ知らないが、
ごくまれに遭遇しても言うことが「学生時代にもっと遊んでおけばよかった」、
彼が人の100倍以上遊んできたのを知っている私はあきれるが、
本人は真剣に「ぜんぜん遊んでこなかった」と話す。
自称「遊べなかった学生時代」を経て結婚離婚を繰り返し、
現在娘ほどの年齢の夜の美女をとっかえひっかえ連れ歩いているのに、まだ遊び足りない。
彼に足りないのは「満足すること」のみではないかと私は思うが本人は全く気がつかない。
遊んでも、遊んでも、彼に「よく遊んだ」の自覚は生まれない、むしろやればやるほど渇望は激しくなるようだ。
話を戻して「あの時やっとけば良かった」と言う、若いころにも散々やってきただろうおばはんたちを見ていると、
たぶん、その人とやってもそれを忘れてほかの人ともっとやってれば良かったと思うよ、と言いたくなる。
こういう人たちがまともな人間へのアドバイスをしてはいけないんじゃないのかな、
性経験の数をこなしても、人間への理解度はかなり低いんじゃないか、
私はあいにく「あのときやらんでよかった」としみじみ思う人間で
故に、ずっと友達のまま、良い記憶とともに残っている人間関係はそこそこある。
たとえば学べば学ぶほど、まだまだ学ばなければならないものが見えてきて、
学ぶことに果てがないのはすばらしいことで、
「学び」は一つ一つが折り重なって、次が見えても、そこまでにいたるすべてが消えるわけではない。
故にどこまで行こうと「豊か」なのだ。
しかし、性経験はいくら「数」を重ねても、おそらく「満足」はない。
それはその経験が身についていかないからではないか、「学ぶこと」と違って。
顔も忘れるくらい多くの相手との性経験は何度繰り返しても「リセット」にしかならない。
積み重ねたものがないから「満足」からは程遠い。
「経験豊富」と言ってもそんな不幸な人間が若い世代に「とにかくやれ!」のようなことを言うのは
特に女でそれをそそのかす人間には注意が必要じゃないかな。
昔から「やらないと後悔する」と言う年上のおばはんはよくいて、
たいていが若い女の子を誰かにあてがってうまい汁を吸う、いわゆる「やり手ババア」であった。
そんなやり手が何回も結婚離婚を繰り返し、したり顔で人生・恋愛相談をしているのを見ると、
失敗からも学ぶものはあるのか?と考える。
本人がぜんぜん「失敗」から学んでないのに、何故他人にアドバイスできるのか、全く不可思議だ。
私が激しい更年期になったとしても、
ちょうど結婚して出産したころだった「25〜6歳ごろを後悔する」ことは「ない」気がする。
色々「やって」ないから、後悔も少ないのだろうが、それが幸福な小市民の「知恵」かもしれないと、ここに。
「経験値を上げるために数をこなせ!」と言う人間はたいていろくでもない現実をこっそり。
本質的に非常に深い行為である性をガツガツとむさぼりただ数だけをこなす存在を「餓鬼」と呼ぶ。
人は「餓鬼」になってはいけない。