橋本治の言葉から。

橋本治が「最近は知性に倫理が伴っていない」と朝日新聞に書いたのを読んで、「倫理の伴わない知性」が存在するかと驚いた。
橋本治が真面目なのか、私が知性を神聖視しているのか、よくわからないが、
昨日読んだ強烈に意地の悪い文春記事には確かに感心させられた。あれに「知性」があるといえばあるかもしれない。
私がうなるほどかの文章を上手だと思ったのは、某めがねアイドル女子を貶めるのに、
吉田豪という、ある意味、侵し難い存在を盾に、個人攻撃を浄化する、それをなにげにやってのけて、
これは女性にしか書けない、そのライターはさすが「サ○ゾーウーマン」で書いているだけある、と思った。
彼女に「知性」は確かにあるだろう、でもその「知性」に「倫理」はない。
橋本治の言葉を借りれば「知性なき倫理」も存在するだろう。
考えてみれば、最近の「倫理」に「知性」が伴っているのをみたことがない。
芸能人の不倫だとか、最近起こった醜聞への反応は「倫理観」が振りかざされても「知性」はない。
故に「倫理」がまったく無意味になる、その情けなさを私は何度見て来ていることか、
その暴走に、ついのせられてしまうことがある己の知性のなさにも泣ける。半世紀生きても私に知性は身につかなかった。
それはともかく、「倫理なき知性」であれ「知性なき倫理」であれ、
なぜ、どちらか一方だけしかない場合、ああも醜く暴走するのか、
本質的には両輪であるはずのものの片側しかないと、走った結果が同じものになる恐ろしさを今の時代に見ている。
この原因となるのは何かと考えてみると、私にはやはり「貧しさ」が答えに出る。
おそらく「倫理なき知性」には「心の貧しさ」が、「知性なき倫理」には物理的な「生活の貧しさ」があるだろう。
私は「社会の右傾化!」が叫ばれるたび、この二つの貧しさが激しくぶつかり合っているのだと最近思うようになった。
社会が貧しくなるとは、こういうことか、と橋本治の何気ない言葉に気がつかされて、
彼の知性におそらく倫理は伴うのだろうと感じた。
もの書く世界は何でもありだが、どこかで「ここまで」はあるのだと私は信じている。
橋本治は「ここまで」と倫理で押さえ込む知性の限界を知っているのだろう。
久々によい言葉に出会った。
言葉の世界は、まだ豊かだ。