読書メモ。

先日、数十年ぶりに読み返した「ドクトルマンボウ青春期」の北杜夫太宰治評が面白かった。
北杜夫はほぼ「オンタイム」で太宰作品を学生時代に読んで、まんまと「はまった」と告白しているのだが、 
そのはまり方が「この文章は俺だけに向けて書いている」「俺しかこれはわからない」などと、
いや、それはありえないでしょう、の理性を一切廃す、恐るべき太宰の文章構築力!とは書いてなかったが、
私は教科書で「メロス」くらいしか太宰作品は読んだことがないので、かえって読みたくなった。
そんなにすごいのか?太宰。
それはともかく、北杜夫はその後、太宰のある種の「トリック」的な書き方にやがて辟易としたようで、
彼自身の書く才能やその力量はともかく「彼の亜流で大成した人はいない」などと
書く側の倫理面を問題視したようなので、この考え方は「もの・書く人」として珍しく思った。
おそらくは「書く側の、読ませる相手への倫理観」は「あるべきだ」と考えたのだろう。
私が久々に北杜夫作品を読み返して、やはり「良いなあ」と思えるのは、
懐かしさもあるだろうが、この「もの・書くこと」への責任感、潔癖さ、純粋さ、があるからと今になってわかった。
茂吉にもそれがあったのは「青春期」の記述でうかがわれた。
「もの・書く」人としての尊敬の念から父親・茂吉の描写に愛がこもるのか。
親としては多少いかがなものかと思われるにもかかわらず、「もの・書く」プロフェッショナルへの惜しみない賞賛の念を、
もち続けられたのは、生来の無垢が北杜夫にはあるからか。だからどの文章を読んでもどこか清潔だ。
北杜夫のほかの作家評では芥川龍之介の文章がよいなど、
私はこれも教科書で「鼻」しか読んでなかったような、「クモの糸」も読んだか。
確かにさくさくした文章だったな、また読んでみても良いか。「羅生門」は読んだかな?再読の機会か。
私はしょっちゅう本を読んでいたので大変な読書家と思われて、なぜか太宰も当然読んでいるものだと見なされたが、実際はさっぱり太宰に行き会わなくて、
考えてみれば有名な「恥の多い人生を云々」を一行読んで「何だコリャ」と本を閉じてしまった記憶がある。
私の周囲の読書家は「ハルキスト」で、なぜか「太宰」も好きだった。
村上春樹は「ノルウェイの森」を最初に読んで「なんじゃこりゃ」と言うとハルキストが「羊をめぐる冒険」を勧めてくれて、それは面白かった。
(が、完璧に忘れている)
羊をめぐる冒険」もそのうち読み直すことにして、とりあえず「楡家の人びと」を最近読んだことだし、太宰治の「斜陽」を読んでみよう。
たしか家族(華族?)の物語だったな。