いろいろ。

右向いて左向いたら、朝ドラヒロインが子供を産んで戦争が終わったらしい。時の流れは速いわー、、(涙)
見よう見ようと思って見ていなかった。せっかく「ファミリア」物語なのに。そしてこれからも熱心に見るかどうかは不明。
最近、気がついたことに、私が「戦争」描写に妙に心惹かれるのは、ノスタルジアではないか、
子供時代に繰り返し聞かされた「戦争」が「物語」として刷り込まれ、子供時代の郷愁が戦争記述に執着を促すのか、
私は戦争時代の生活記述にいつもひきつけられる。先日の「楡家の人びと」もその部分が心に残る。
都会の裕福なご家庭の戦時期の生活は私のような田舎者には面白い。
「楡家一族」=「斉藤茂吉北杜夫一族」だろうから、都会の中の上家庭は違ったもんなんだな、
数年前だがエッセイストの本間千枝子さんの本でも同じような生活ぶりだったのが記憶にある。
恵まれる、とは非常時においても恵まれる、本人たちには悲惨に思われただろうが。
そういえば「小さなおうち」の戦争描写も都会的だったな。
先日、ネットで都会の中学受験塾事情をちらと読んで、塾は「親」に覚悟を促すと言うか「試す」と言うか、
「それをあなたは子供にきちんとやらせられますか?」を聞かれるのは親切か、「しない」と「出来ない」の分かれ目はどこにあるのか、考えさせられた。
中学受験は「親の受験」なのだな。
しかし、「大学受験」に至っても結局は「親の受験」であったりするのだから、
子供に学歴をつけるとは、親の役目の一部なんだろう。みもふたもない世界であることよ。
能力の地域差は数字では出るものの、どこに生まれてもやはり高い能力を持つ人間はいるし、恵まれていても手の施しようがないほどの阿呆はいる。
この上下関係が「社会」のあり方で逆転すると悲劇が起こるんじゃないか、
少なくともあまりにもあほな人間が自分のあほさ加減に気がつかず、自分より下にいると信じている人間の能力の高さにすら気がつかなかったら
お互いにとって大変だろう。
ある日突然、上にいる人間の世界がひっくり返ることもあるのだから。
しかし「戦争」でそれがひっくり返るかと言えばそうでもないのだから、世界は奇妙に頑固に思う。
その頑固さにどう立ち向かえるか、生きるとはそういうことだと時々考える。