雑記。

はてなの阿呆連中に久々に腹が立つのは腰痛回復の兆しか。ババアは、弱ると腹も立たん。
私は、もう公教育を公教育で子供を育てていない人たちにいじられたくない。
おそらく、私は一番悲惨な時期に公教育で子供を育てたから。
経験的に「かわいそう!」なんて感情が引き起こす「こうすればいい!」に良い結果が伴ったことはない。
「教育をよくする!」とは、結局「教師だけが恵まれる!」=「生徒は放置」につながるのを見てきた。
なんだかんだで数の多い子供の待遇をよくするより、文句を筋立てて言える教員を黙らせたほうが早いんで、そうなる。
「こんなに私はかわいそう!」の増田だが、その増田に食ってかかる生徒が増田より待遇のいい職につける可能性は皆無。
この悲惨が見えないのでは増田は教師に向いていない。やめるのが正解。ある程度勤めていたら、退職金だってそこそこあるしね。
見ていないが、現在「中卒夫婦の子供が中学受験に挑戦」というドラマがあるようで、これは私には切実な現実感がある。
現在20代前半の上の娘の数年上の世代で高校受験が激変して、娘たちが通った中学ではなんと1クラスの人数、高校にいけなかった。
内訳は、まず、親が子供を教師に丸投げで、受験に必要な書類は揃えられなかった子供たち、
これは、以前であれば担任教師がかなり骨を折って集めていたのだろうと思う。それをたった1枚のプリント通知で終了。
そのプリントを親にすぐ渡すような子供ならいいんだけど、そうじゃない子供はそこでまず、アウト。
次に、自分の子供の学力を見誤っている親の子供。
「そこはこの成績では無理ですよ」を「言えなくなりました!」だそうで、「チャレンジ精神を損なわないために!」ってことらしい。
そのほか、これが一番少ないが、はじめから高校に行くような家庭ではない子供たちで、
これはうちの中学では毎年少数いるのが普通。
とにかく、かつてなら高校に入れるかどうかの「ボーダーライン」上にいる子供たちががっさりと跳ね除けられた。
教育現場での「生徒の自己責任導入」で、うっかりした親が呆然としても、教師は「本人の意向を尊重した」で突っぱねて、
親子で右往左往しているうちに卒業式。
わが子たちの母校は元々卒業式にはパトカー数台前づけの伝統があるので、卒業式が荒れようが荒れまいが、通常通り。
当時まだ、小学生だった私たち保護者はこの情報を手に入れて、
4月が過ぎても行くところがなく中学の周辺をうろうろしている元中学生たちを見ていた。
さすがに一クラス分の「中卒で終了」を出したのは問題になったらしいが、次年度も同じようなもので、
結局私の子供たちの時代も同じスタンスで突っぱねられた。
上の娘は中学始まって以来初の元旧制中学の入学者代表になる成績だったので、地元では評判となり、
入れ替わりに中学に下の娘が入ったとき、ずいぶんといろんな人にお褒めを預かったが、
受験のアドバイスをまったく教師からもらえなかったことを私は決して忘れない。
娘がたった一人で努力したことを学校の手柄みたいに匂わされるのは本当に不快だった。
書けば書くほど、いろんなことを思い出して、教師が生徒を放り出す腹立たしさが募る。
私はあの時、中卒で社会に放り出された子供たちが現在「アラサー」になって、仕事を早くに始めただろうから
おそらくは結婚して子供を持つのも早く、その子供が中学受験をするくらいの年齢でもおかしくないと思う。
「子供を自由に!」「本人の意向を尊重!」なんてのは、確かに正しく格好いいが、
現実にはどういう用いられ方をするか、それが現場を知らない人間には見えない。