ほんの感想。「東京を生きる」・その1

はてなで昔「弟よ!」のタイトルで書かれていた雨宮まみさんの本。この方の訃報が私には今年最も衝撃的だった。
本を出されているのは知っていたが、生きている世界があまりにも違うので「立派になって、、」
とそっと影から見守る「ばあや」気分でそのご活躍を遠くから眺めていた。
私はネットで「良いな」と思う人が出された本を買うのをいつも躊躇する。なぜか裏切られた気分になるので。
ネットではあんなにキラキラしていた言葉の力が、紙の上に現れたとたんなぜかその輝きを失う。
雨宮さんの文章は好きだったので、あえて読まないようにしていた。がっかりしたくなかったので。
このたびなくなられたと聞いて、雨宮さんが見た、生きた「東京」を知りたくなったので読んでみた。
そしてわかったのは、ネットではキラキラする言葉が紙の上に現れると同じように受け取れない理由で、
ネットに表れる言葉は、それを綴る人の肉体が感じられるから、生き生きと見える。
ネットがいまだ持つ「ライブ」感がそうさせるのだろう。でも「紙の上」となると、その言葉を綴る人の息遣いは遠くなる。
たぶん、言葉が形を容易には変えないから。受け取る言葉は硬くなる。
雨宮さんはもうなくなられているので、ネットの言葉も、紙の上の言葉も、同じ硬さとなる。
それゆえか、少なくともこのたび私は雨宮さんの本にがっかりせずに済んだ気がする。
今の私はネットに残された彼女の言葉のほうが読みづらい。
彼女の「東京を生きる」は初老の私には難しい本だった。
ハテ、これは私が知っている「東京」なのか、同じ都内であっても生息地、出没地によってこんなにも印象が変わるか、
「東京を描く」と言うよりは「女性が一人で暮らす」の痛みを綴る本であるように思った。
一人で暮らす自由と不自由、それから「女性が一人」の過酷、それでも「一人」を手放すことが出来ない。
私が読んでいて感じたのは、雨宮さんは、若い女性が無意識のうちに持ち、無意識のうちに手放す透明で柔らかな何かを
ずっと抱きしめて生きている人だったのだろうということ、
それは意識して手放さなかったのか、そうではなかったのか、私にはわからない。
雨宮さんが女性に寄り添う言葉を書き続けられたのは、そのやや厄介な「何か」を失うことがなかったからか、
その「何か」は「幻想」とも言い換えられる。
本の中で雨宮さんは恋愛は幻想だと言いたがる人を批判する。「幻想」以上に美しいものはあるのか?と問いかける。
たぶん、ない。でも「幻想」はやはり「幻想」だ、恋愛が幻想かどうかは別にしても。
「東京を生きる」は、東京の街の中に見つける「幻想」を綴ったように思われた。
雨宮さんは「幻想」ととても上手に付き合われた方のようだ。たいていの人はそうではない。
長くなるので今日はここまで。