ほんの感想・雨宮まみ「女の子よ銃を取れ」

雨宮さんの「おしゃれ指南本」、親切にご自身の「おしゃれの軌跡」を語ってくれている。
読んでいると、20年ほど前、30代独身の知り合いが「30代独身女が着る服はない!」と嘆いていたのを思い出した。
「仕事着は、ある。でも「普段」に着る「おしゃれ」な服がわからない、というより、ない」
「女性の場合、年齢で着る服が決まるけど、その年齢に附属する「既婚」「子持ち」とか、そういうものが「ない」人間の服は存在しない」
と、好きなのを着ればいいじゃないか、そこまで服装に「様式」は必要か、なんて「既婚・子持ち」の私は思ったものだったが、
雨宮さんは「他人からの視線」を年齢とともに意識させられる苦痛を諄々と説いて、
私は「おしゃれ」にそこまで深い思い入れがあるわけではないので考えさせられた。
以前読んだ「東京を生きる」でも思ったように、私はやはり雨宮さんがよくわからない。
「好きな服を着たい、でもきれいとも思われたい、好きな人の好きな服を着たい、でも媚びていると思われたくない」
なんて言われると、「どっちか選びなはれ!」と詰め寄ってしまいそうだ。
私がよくわからなかったのが「好きな人の好みの服を着る」で、
昔から私の周囲の男性はさほどおしゃれな人ではなかったらしく、「こんな服装が好み」と言う人がいなかった。(気がする)
着ている服をほめられて、「ほほほ、そうでしょう、そうでしょう」と勝ち誇ったことはあっても、それ以外の記憶がない。
今でも、娘の友達に「○○のおかあさん、若ーい」「きれーい」とか言われて「もっとほめなさーい!」なんて舞い上がってるので、
繊細な「女子心」が今ひとつわからない。私は幸福な阿呆なんだと思う。
先日、下の娘を親戚の集まりに連れて行くとき、見栄っ張りな私は、日ごろ「奇天烈アート女子」な服を着ている娘に
私の選んだ上品な「ブランド・ワンピース」を着せて、それはよく似合って大変美しく、
みんなにほめられたので得意であったが、娘にはその服を気に入ってもらえなかった。
彼女にとって、どんなに似合っていても「これじゃない」感満載の服を着るのは苦痛なんだろう。
ただ、親戚の集まりとか、どうしても必要な場面はあるので、それは了承してもらわねばならない。
いつ、いかなるときも「自分」を押し通して生きていけるほど、人生は甘くない。
服装には2種類あって、他人の評価を必要とするときに着る服と、自分が好きで幸せになるために着る服と、
それが一致している人は幸福だが、たいていはそうじゃない。そこで起こる混乱を丁寧に雨宮さんは解説しているのだろう。
私は娘たちほど頭が良いわけではないので、娘の持つ複雑な感情をいまひとつわかってあげられない時がある。
雨宮さんの言葉で、娘たちの若さゆえの気難しさを少し読み解いてもらった気がした。
雨宮さんにはもう少し長生きをして、自身のおしゃれ哲学がどう変わって行くか、記録して欲しかった。
彼女の「女子をこじらせて」は、図書館ではいつも借りられているので、まだ読めていない。
「東京を生きる」でも思ったが、やはりかの本を読まないで彼女のことは理解できない気がした。