お付き合いの様式、、、美(?)

なんちゃって。
結論から書いておけば、階層によって「お付き合いの様式」は違うが、その「階層」に行った人間はその「流儀」に従ってはどうか、
それが本当の「礼節」ではないか、って話。
フジポン先生がお気に入りらしい中川淳一郎のエピソードを再び紹介して前もこの話を読んだとき、
たぶん、底辺中学出身者だったら「ウッセーわ、やってらんねーわ、そんなこと、できっかよ」と言い返して、
彼らと多少のコミュニケーションを築けたかもしれないのだが、中川淳一郎みたいなやはり「エリート」は出来ないんだな、
はじめから彼らの「やり方」を理解してない、「壁」を築いているのは彼のほうだというのが、フジポン先生にも見えないんだなあ、
これが「育ちの違い」なんだろうな、底辺出身の私と、たぶん私の子供たちだと「彼ら」がやりたかったことが見える気がする。
「喧嘩」したかったんだよ、「バイト」の君と。
でも「しなかった」んだよね、「勝てない」と思ったのもあるかもしれないけど、はじめっから、同等の「人」と思ってない。
「そういう無礼なことを平気でする下等な人間」と思い込んでいる。だから「喧嘩」なんて「馬鹿馬鹿しくてしない」
底辺世界では、仕掛けてきた喧嘩は「買う」のが「礼儀」、
子供時代、「友達」になるのに「喧嘩」ってしなかったかな、それが他人と親しくなるときの一番シンプルなやり方だった。
その「喧嘩」に乗るか乗らないかで上下関係も決まる、中川淳一郎は「買わなかった」からずっと「ぱしり」扱いになった。
「お付き合いの流儀」が小学生時代からずっと変わらない人たちという彼らの不幸に付き合うことはないけれど、
彼らと同じ仕事の場に一瞬でも来たのなら、彼らの「流儀」も理解するべきなのに、
彼に残ったのは「我慢した自分」と「底辺の人間は確かにクソ」だったりして、あー、本当に「階層の分断」って不幸だわ、
「喧嘩上等」の世界も少しは経験してみればよかったのに、子供時代から恵まれた育ちをするとは、見えないものも出来てしまうんだな、
それはそれで、いいんだけれど、じゃあ、もう「俺たちの世界」から一生出られないだろう人間のテリトリーを侵すなよ、
「金が手っ取り早く欲しいから」で「その世界」に来た「だけ」の人間が、「その世界」を語るなよ、
中川君、君はどこにでも行ける、そしてそのことを「いき」がっている、でも「行け」ても実際は何も「見えてない」
見えるものは「自分がどう感じたか」だけ、これだけ多くをもって恵まれた人間がネットに毒づくとはねえ、、
私は山本一郎同様、この中川淳一郎も嫌いだわ、なんか「一郎」って名前そのものが、どこかしら「オハイソ」だしね。
私は、全国有数の底辺中学で育ったせいか、私の中から立ち上る独特の「ヤンキー(とともに育った)臭」があるらしく、
「奥様族」の中ですましてもどこかはみだすし、どこの下町に行っても特に「浮く」ことなくなじめてしまえる。
私は「素敵・奥様」の世界をやや知っていて、その世界にも「お付き合いの流儀」が存在して、それを知らないものは確実に弾かれる。
「弾く」側はそれを「当然」と思うわけで、中川淳一郎が弾かれたのはお付き合いの様式美を少しも理解しようとしなかったからだろう。
「お付き合いの流儀」はどこに行っても学ばなければいけないと私は思う。「郷に入っては郷に従え」はやはり「礼儀」だしね。
「上」の「礼儀」が本物で、「下」のには従わなくて良い、ってことは、「礼儀」の本質とはかけ離れていると私は思うのだが、どうなんだろうね。
ま、底辺世界のほうが実質「広い」んで、私はヤンキー底辺中学で育ったことを実はありがたいと思っている。
「お付き合い」のやり方は、教えられないとやれない人が多いのだよね、、
いちから自分で学ぶには相当痛い思いをしないといけないし。
私はかなり痛い思いをしてきた。だから中川淳一郎みたいな人は嫌いだ。