「貧者は貧困を語らない」

と言う鉄則がありましてな。
昨日、「貧困」が学問化しているのを見かけて愕然。
しかも取り上げている人がネットで最も胡散臭い人間の出身大学・同学部・同学科だったりして、ますます心配になる。
この先、「貧困問題」は「利権化」するだろうなあ、しかも、一番届けるべき貧困層には届かなかったりして。
たぶん、既にそこそこ恵まれた人間がそれらしく語ることで金を稼いで「飯うまー!」になってしまうのよ、いやはや、階層の断絶は深刻だわ。
少し前から「底辺出身の私!」と言うので注目が集まるのを懸念してきたが、ここにいたって、こういうのが出てくるか。
結局「貧困問題」が恵まれている層の「豊かさ」を確かめる手段なので注目されるんだろう。
善意とプライドが絡まる分野なので、学問化して確立すると、厄介なのだよね。
ハテ、またどんな「かわいそう!」を押し立てて、何が出来上がるか。あまりよい結果にはならないだろうなあ。
「かわいそう」が利権化しているのは既にネットで(はてなで?)明らかで、
おいちょっと待て、と言いたいことまで「かわいそう!」で見過ごされる。
私はかねがね最近のはてなで注目される「自称・底辺出身で一生懸命がんばって高学歴になったけどかわいそうなわたし」には疑いの目を向けている。
以前も書いたが、学校に2時間もかかる場所に住んでいるど田舎出身の、親が高卒の人間が何で一ツ橋大学?ってのは
お受験を潜り抜けてきた地方出身の親の立場では絶対抱く疑問なんだわ。
しかも年齢設定からして、最も就職が厳しかった時代に今も人気職種の出版社勤務だったりする。田舎の底辺出身で!としみじみ思うな。
絶対「ない」とまではいえないが、もし真実なら相当高いコミュニケーション能力を持っているからニートにはならないんじゃないか。
これ、いわゆる「中の人」が「何とかのぐだぐだ」の人と同じでも私はぜんぜん驚かないな。
私がこの手の話にうんざりするのが、そこそこ恵まれた人間がわざと貧困を偽装することで貧困がどんどん誤解されていくことで、
なんだか本当に底辺出身で真剣に努力してきた層を軽く馬鹿にしているような、
底辺出身が高学歴を得ても何の意味もない!」「努力なんて無駄!」と努力してこなかった層が簡単に言ってるのだよね。
死ぬほど努力した人間は努力が無駄だったとは言わないわ、中途半端に恵まれてきた人間しか口に出来ない言葉なのだよ、
「努力なんてしても無駄」とは。
これを書けば「昭和の人間」とレッテル張りをされるのは重々承知で、それでも書くんだが、
「努力なんてしても無駄」と言うことは「ない」、正しく努力は常にすべき。
世の中には努力の方向が間違っている人間が山ほどいて、どこにどんな努力をするべきか、それを考えるのはまた努力の一部だったりして、
それを全否定する向きがネットにはあるのが私には腹立たしい。貧困層にはおとなしくしてもらわなければ、自分たちの立場が脅かされるか。
努力すら否定することで新たなる「貧困」を生み出して、それを分析することで注目を集め、金を集め「飯うまー!」ですかね?
と、心底「底辺」出身の私は思うわけですわ。育ちが悪いのでな、「上」の人たちの考えることなど、一切信用しとらん。
なんだかなあ、本当に相変わらず、ネットは怪しい人たちのあさり場だわ。うんざりする。