日常。

昨日の「真田丸」に涙したり、はてなの炎上ネタを読んだり。はてなの炎上ネタは正確に言えば、最後まで読めなかったが。
この方の炎上はいつごろであったかと自分の日記を振り返ると、まだ半年も前ではないのだな。
うう、世知辛い、せめて1年ぐらいほとぼりを冷まさせればいいのに。まだこういう形でも続けさせたいかね。
なんだか、発端になった言葉の持ち主が気の毒になってきた。
この文章構造でごまかしがきくと思われているネット読者はほぼ低脳と断定されているか。その辺りに嫌悪感があるのだよ。
かわいそうな私のような低脳にはなけなしのプライドしかないのよ、、(涙)
一方、「真田丸」の父子関係には大いに考えさせられる部分があって、毎回その脚本の巧みさに乗せられる。
同性の親子関係の難しさがちらほらと私には見える気がする。
強引で実力者の父親とそれについて行きつつ、自我を少しづつ確立する息子たち、親子関係からいつ子供は卒業するか、を時々考える。
真田丸」の感想はまたいずれ。
一日置くとはてなのホットエントリでは大学中退者の擁護意見も出て来たり。これらも読んでないが。
お子様の教育問題とは教育にどの程度お金をかけるか、が一番難しかったりして。
「かけても、かけてもかけたりない」の熱心な方もいたりするので、おそらくは私はその対局にあると思われる。
ただ、物事には限度もあるだろう、が私の考えで、これが正しいか、間違っているか、はいまだに私もわからん。
そういう考え方は自分の子供に失礼だとマイダーリンには言われたが、うちの子もやはり躓くことはあるので、そのたびに親としてあり方に後悔があるのだよね。
お金で買えることはやっておくべきではなかったか、などと、我が家はマイダーリンだけのおかげで、お金はある家なのでなあ。
それを使わなかったのは単なる自己満足か、と苦く思うこともあるのだわ。
特に「恵まれた人間の常識」にそれを持ち合わせていない子供たちが戸惑わされたときは。たぶん、自分を惨めに感じるときもあるだろう。
このことに関してはいずれ書き残そうと思う。自分自身を整理するために。もうあまり迷いたくないので。
先日、社会人の娘が「なんだかんだ言って、今一番仕事で使ってるのは中学で習った情報教科で勉強したことだわ」なんて言ってくれて、
そこにほっとする程度に弱気なのよ。今の公教育はそんなにむちゃくちゃ叩かれるようなものではないと、私は今でも思うんだが。
常識と良識と知性が、完全に融合されるのはいつになるか。今の私がどうかといえば、まだまだだわぁ、、(涙)