「うつくしい」とおもうこと。

昨日、ミステリチャンネルをつけると「獄門島」の大原麗子が映って、「美しい人だなあ」としばし見とれてしまった。
私の幼き日々の「美人」とは大原麗子で、いまだその美しさを超える人に出会ったことがない。(気がする)
しかし、その美しさゆえに精神面が不安定で、晩年、あまり幸福ではなかったようだ。
亡くなられ方も「あの美しい人がなあ」と涙を誘う。
大原麗子の美しさは精神面の不安定さからかどこかはかなく、それがとりわけ魅力的に私には見えたが、こういう不安定さは本人にとってつらいことかもしれない、
人に注目される女優と言う仕事が彼女の精神面を悪くしたのではないか、などと考えてしまう。
私は最近、ツイッターのある集団を面白く眺めているが、この誰かの造形物のツィートを見ていると、大昔、大失敗した「フルCG」の映画を思い出す。
登場人物を当時はまだいまひとつ精巧さに欠けていたCGで作ったゲームの映画化だったと思うが、あまりに不評で確か会社の業績まで変えてしまったらしい。
そのころはまだ製作に値段がかかりすぎたか。
しかしシリーズものを製作するとき「フルCG」は「あり」ではないか、とは「タンタンの冒険」を見たときに思った。
俳優が年をとらないとは製作側にはよいことではないかな。
そして広告塔として使われているだろうツィッター人物を見ていると「安定している」の点ではありか、「ベッキー」騒動もないだろうし、などと
また、個人そのものを多数の人間に晒さずに済むから、「中にいる人」の精神的負担は少ないかもしれない。
いまだフルCGほどの精巧性もない荒い作りのツィッター群を眺めていると、人の代わりとなる存在は出来るかどうかは未定だけれど。
コンピューター業界の人間はこの先20年ほどで人間が携わる仕事は半減すると言われて、おそらくは「俳優」業などもその範疇ではないかと思うが、
そうなると人間の感覚も変わるんだろうか。未来の人間は映像に残る大原麗子を「美しい」とは思わないんだろうか?
私がいまや映像の大原麗子の年齢をはるかに超えても、やはり彼女を「美しい」と思う感覚は過去の記憶があるからか。
自分は過去の感覚に生きる人間になりつつあるか、と思ったのでした。
私は不安定で魅力的な世界に存在するのだな、とも感じた。
「うつくしい」とはなんだろうな。