新聞メモ・「あの日」書評。

今の時期「あの日」と書けば5年前のことを思い浮かべるがこれはかつては「リケジョの星」とされた小保方晴子氏の「あの」本。
朝日新聞の書評欄で東北大学教授の五十嵐太郎氏が取り上げている。五十嵐氏は建築批評家。
書評はおおむね、書き手の科学者としての資質はともかく「文芸作品」としては特異で面白い、とほめている。(ように思える)
その是非は読んだわけではないので私には判断しかねるが、記述に気になる部分があったので、メモをしておく。
五十嵐氏は
「豊かな発想の主人公が、その才能を認めたバカンティ先生、絶妙の手技をもつ若山先生、天才的な論文構成力をもつ笹井先生と出会い、
彼らのサポートを得て、一流の科学雑誌に画期的な論文が掲載される成功物語が前半だ。」と書いている。
ここで私が気になったのが「特別な彼女」のサポート役が全員「男性」であること。
私の下の娘が女子の割合が全体人数の1割にも満たない工学部に行って、いろいろ聞いて大変だと思っているのは、
この「紅一点」という存在の難しさで、「若い女性」で、いわゆる「コミュニケーション能力」の高い場合に、
どうやら能力以上のポストが与えられる可能性が「若い男性」に比べて多いようであること。
実際、たとえさほどのコミュニケーション能力がなくとも、男しかいない世界に果敢に立ち向かって行く女子を、
周囲の男子集団は、はじめは警戒していても、徐々にその生真面目さが理解されると仲間として受け入れてもらえる。
ただ、受け入れられたあとにその環境を維持して行くのは大変で、
やはり彼らの中にはどこか「女の子だから」というある種の同情心か義侠心を持って接してくるものが多い。
「数少ない若い女の子」という「後光」は本人の能力以上の評価を得られる機会が多い、それを「自分の能力」と考えていいものかどうか。
これは自分の能力を的確に理解している人間には、受け入れがたいことであり、なるべくならそうした立場におかれない努力をする、
私の実は内気な下の娘が気をつけていることだ。「機会に男女の差はあってはならない」をどこかで信条として持っている。
男子集団に混じる女子の難しさを娘の話から感じることが多くて、その点でも「小保方晴子」氏と言うのはかなり異様な存在のような、
小保方氏が男性であったら、ここまでの優遇措置が受けられたかどうか、それをかけらでも考えなかったか。
そんなことも考えないほど「研究に夢中でした」とは言えることかもしれない、ただ、それが「真実」であるかどうか。
五十嵐氏は
「いわば、周りの大人たちに振り回されながら、その期待に応えようとして、本人は一生懸命がんばる涙と根性の物語である。
研究者の複雑な人間関係、主人公が女性であるが故の周囲の特別視という側面からも読めるだろう。」
と、簡潔に述べている点がおそらくは、アマゾンのレビューで多くの高評価を得られている理由ではないか、
文系人間はこうした「ストーリー」に非常に弱い、私も含めて。
最初は「理研」という集団が作った「ストーリー」(=「ものがたり」)のなかの主人公として生きるに最適であった人物の小保方氏は
今度は別の「ものがたり」をまた誰かが作り出し、その中で生きていくようで、私はどこか、彼女を哀れに思う。
そういう生き方をする人は一定数、存在するので。それが良いか悪いかはわからないが。
彼女の特異な存在は「男社会」で真面目に生き抜こうとする女性に「なってはいけない」好例として認められる気がした。
やはり「あの」本は読んでみないといけないか。ブームが去ったら、ブック○フに落ちたのを拾うかな。
五十嵐氏の書評は「読ませる」が目的の「書評」として秀逸だ。