映画「風立ちぬ」感想。

そろそろほとぼりが冷めた頃なので「にい兄さん」である二郎さんのお兄さんのお名前は「太郎」さんかしら、「一郎」さんかしら、、
と考える私が「風立ちぬ」の感想を書いてみる。
「二郎さんの美しい「ものづくり」のおはなし」と思った。
一緒に行ったダーリンは「どこか引っ掛かりの多い作品」と言うのだけれど、私はそれは全くない。
思っていたよりずっとさらっとした作品で、素直に楽しめた。
ネットに溢れているドロドロした評とはかけ離れた作品であるな。
このサラッと感にイラッと感を募らせる人はいるんだろう。
私は当時最新鋭の飛行機をテスト試験場にまで持って行くのに「牛を使う!」と同僚が憤った時、
つい「牛は好きだ」と明るく言ってしまう、その協調性のなさというか、マイペースさというか、二郎さんの鷹揚さにぐっときた。
映画の最後でも完成した自分の飛行機がやはり牛に引かれていくのを見ても恬淡としている、
この失われることのないのんびり感がいろんな意味で「救い」である気がする。
欧米諸国に比べ日本の技術的が大幅に遅れているのを「アキレスと亀」としてキリキリする同僚の姿が
多分この当時の技術者たちの本心で、その焦りを救う意味で、二郎さんの夢は存在するのかもしれない。
技術を磨こうと、海外に研修に出かけて「日本人はなんでも盗む!」などと邪険に扱われるのを
まともに取り扱うと、とても娯楽映画にはなりそうにない。
でも、イライラする同僚が、実在する「堀越二郎」の一部のように思った。
エリートが海外に出て、自国のために技術を磨こうとする、明治は終わっても、明治の続きの時代だったのだな、
そういえば、二郎さんは明治生まれだ。明治男が活躍した時代だから、やはり心情は明治であったか。漱石や鴎外の後輩だな。
考えてみれば、二郎さんの青春時代の一エピソードとして挟まれた「お絹さん」が訪ねてくる場面は森鴎外の「舞姫」のようだ。
年月を経ても忘れられぬ相手が一度だけ訪ねてきたのに、会えずに終わる、後につながる恋の匂いがほのかにある。
物語の後半部分は次郎さんと菜穂子の愛の物語となり、それは「悲恋」との扱いだが、年齢のせいか、私には「完全な恋愛」に思えた。
菜穂子は自分の選んだ相手に、その相手が一番必要とする時期に、最も必要なものを与える恋愛をしているのだから。
その瞬間は完成されていて、ほかの何者も入り込むことがない、至福の時を相手に与え、与える以上の喜びを菜穂子は得ている、
そう感じるのは、私の人生が後半に入っているせいなんだろう。
私は、必ずしも自分の愛する相手にその相手が本当に必要としているものを与えられるわけではないのを知っているので。
菜穂子が療養先の山で読んだ二郎さんの手紙はどんなことが書いてあったのだろう。
二郎さんの性格からして、どれほど追い詰められた心境にあったとしても、
それを病に冒された婚約者にあからさまに書くようなことはなかったと思われる。
でも、菜穂子は仕事に煩悶する二郎さんの声を手紙から読み取り、病をおして会いに出かける。
菜穂子には、今、自分が必要とされているのがわかった、これがすごい。相手が「わかる」とは本当にすごい。
菜穂子をそばに置き、二郎さんの仕事は完成する、多分、菜穂子の存在なしに、その仕事が完成することはなかっただろう。
私は「菜穂子」という存在は実在の「堀越二郎」がものづくりを完成するために犠牲にした、多くの「もの」を表しているのだと考えている。
多分「天才的業績」とは「天才」ひとりでは成し遂げられない。その「天才」を生かすために多くの犠牲が、よかれ悪しかれ、払われているものではないか、
そして「天才」とはそういう犠牲を引き寄せるものでもあるのではないか。
「天才」とは偶然と必然が混沌と交じり合ったもののようで、どこか物悲しい。
話を菜穂子と二郎さんの恋愛に戻す。
菜穂子が一人、山へと去っていったことに関して妹が「可愛そうだ」とか、下宿先の細君が「一番綺麗だった時を見せたかった」とか、
当然、観客が考えるだろう意見を二人に語らせているのだけれど、
本当のところは菜穂子と二郎さん以外「誰にもわからない」、
関係が濃密であればあるほど、周囲がどのような感想を持とうが当事者以外には誰も知りえないものとなる。
それは二人の「秘密」でもある、だからこそ、この恋愛は完全で美しい。
菜穂子は至福の時を一番好きな相手と過ごしてこの上なく満足して山に帰ったのだと私は思う。
あとの時間は余録でしかない、そうした「生」の使い方は誰もができることではない。
菜穂子と二郎さんの関係でもうひとつ思ったのが「明治男」と「大正モダンガール」の恋愛であること、
つまり「年の離れた男女の恋愛」で、確かフランソワーズ・サガンが「成人した男の母親になってやれるのはずっと年下の少女だけだ」とその小説に書いていて、
それが反映された関係であるように思った。
菜穂子が身を投げ出すようにして二郎さんを愛するのは少女が大人の男をまるで自分の「子供」であるかのように愛する、
その純粋さ、純真さは、また、誰もが得られるものでもない。
それを二郎さんが架空の作品中でも得ていたように描かれるのに、私は安らぎを覚える。
二郎さんの仕事は結局は戦争の悲劇の一つでしかなく、その責任を問われるのは理不尽ではないのかもしれないが、
個人的にはやはり悲惨だとしか言い様がない。
だからこそ、美しい恋愛があってしかるべき、というのは、あまりにも「大甘」な感想だろうが。
映画作品の感想とは違うが、宮崎監督は「堀越二郎」の名前を残したかったんじゃないか、
私は少なくとも初めて知る名前で、そもそも「零戦」に設計者がいたこと自体を知らなかった。
でもよく考えてみれば、あの時代に純国産で性能のいい飛行機を作るのは至難の業だったろう、
戦争責任とかから離れて、非常に優秀な技術者が昔、存在したことは知られてもいい話と思う。
昭和は大正、明治の続きの時代で、今、平成も、その流れを受け継いでいる、しかし「敗戦」に分断されて
見えなくなったものは多い、良いものでも、悪いものでも。
ダラダラ長い、まとまりのない感想になったので、ここまで。
アニメーション映画としては、風が渡るのを見られるのがよかった。
なぜか、大昔に見た「想い出ぽろぽろ」の背景を思い出した。あれも背景によく風が吹いているように感じた。