「ながら族」世代である私は一人でいても「音」がなければ何もできない。
故にラジオだの配信だのをつけっぱなしにして、ベテランたちの声を常に聴いている。
しかしたまに何となく入ってくる情報がうっとうしくなって静寂に落ちることも。
ふと、こんなに簡単に上手に話す人の声が頻繁に聞けるようになる以前、
今以上に「音楽」はことのほか美しく聞こえたのではないか、
それがさほど上手でなくてもほかの整った音がなければ比べるもののない美しさで
人を圧倒したのではないかと思い付いた。
昔と今では同じものを聞いても感覚はかなり違う。
それとは別に、昭和10年前後に生まれた人と付き合っていると
不思議なことに「愛」とはどこかで教わらないと自然に発生するものではなさそうだ、
に気がついた。そもそも「愛」の定義もあいまいではあるけれど。
現在80代後半から90代の、特に「女性」の場合、10代ぐらいで親の決めた相手と
結婚していったため、その相手がどんな人であろうが「生活」をしていくために
「協調性」は子供時代から大いに叩き込まれたことだろうが、
男女の愛含め、自分の子供に対して持つはずの「愛情」もさほど強くはなく、
むしろ「愛情」と言うより「執着心」を持たずに済むように訓練されていた気がする。
戦前、人は簡単に死に、特に子供などはあっけなく死んでいくことが多く、
何人も子供を産んだ90代の女性で子供を一人も失う経験をしなかった人は稀に思う。
喪失の悲しみにいつまでもとらわれないために人に執着しない、個を持たない、
集団に常に属し、集団で動く、私は女性としか付き合ってないのでよくわからないが
同じ年代の男性も同傾向はあるのか、少々謎だったりする。
話を戻して「愛」とは「こういうものだ!」の刷り込みがなければ
なかなか理解できないものではないか、
私世代などはかなり「恋愛至上主義!」で思春期に刷り込みを入れられているので
「恋愛はこうあるべき!」と迷走する青春時代を送らざるをえず、
それが良いか悪いかは、私には判断しかねるが、
かつて尊敬していた教師が出征する前、初めて会った相手と結婚し、
戦後復員した後もずっとその「妻」と連れ添ったのは
それを聞いた中学生時代、私含む同級生は「そんなことってできるものか?」と
衝撃を受けたものだったが、今はそれが出来た「理由」が理解できる気がする。
感覚とは今と昔とでは大いに違う。
時代と言うか、環境と言うか、それに大いに左右されてしまう。
人間の感覚とは実は当てにならないものであると考えている。おわり。