雑談。

人気エントリでは少子化関係がいくつかあって、まあ、産みたくない人に産ませることは無理なんで産みたい人が好きなだけ産めるようにするのが現実的だろうな、と。
しかし、私が一番嫌いな「うみたくない私を正当化する理由」に「こんなひどい世の中に子供を生み出すなんて無責任!」とか「子供がかわいそう」とか、
もう、死ねよ、バカ、って言いたくなる言い訳、どうにかならんかね。
「こんなひどい世の中」に生きている人間を、つまりいま生きている自分も馬鹿にしてるんだよ、
ひどい世の中なら、死ねよ、今すぐ、と言いたいね、なんで生きてるの、生きてたって無駄でしょ、特にアホなあんたは、って
20年以上前、「子供がうみたいので結婚します」といった時、職場の先輩に「こんな世の中に子供を産むなんて無責任な」となじられたことが
ごく最近まで心のどこかに引っかかっていた私は恨み骨髄で思いますな。
子供を持ちたい、と思うことに罪悪感を抱かせるって本当に害悪以外なにものでもないわ。
で、その呪縛が解けたのが2年前、震災後、10日余りあとに上京して信じられないほど閑散とした渋谷を歩いていた時。
「こんなひどい世の中に子供を産むなんて無責任なことはできない!」とか言ってきた人が今のこの状態をどう見ているんだろう、
「やはり私は正しかった!」と、もし、思えているんだとしたらものすごく「不幸」だな、
つまり、「子供がかわいそうだから産まない」なんてのは大間違いなんだと、なんでそうなるの?と思う人は多いだろうが
やはり「生きている」ということは、この時代も経験する、この時代を見る、存在しない人間はここにはいない、
当たり前のことなんだけど、ここにいる、ということの幸福が唐突にわかった。
そうか、子供を産むってやはり絶対的に正しいことだったんだな、と、
世界が理想的であったためしは一度としてない、は以前から考えてきた事なんだけど、
それ以上にどうなるかわからない世界に存在するとはそれそのものが「すごい」ことなんだよ、
「生きる」とは先のわからない時間を突き進む、人間の生命が尊いのはそういう理由だ、と
2年以上経ってさえ、その時感じた感動みたいなものは言葉には表せないな。
生きるということにすごさ、今、生まれてきていることの素晴らしさを理解したのは、やはり猛烈な数の命が奪われたからなんだと思う。
あのとき、絶望感と無力さが空気の中に満ち満ちていた、でもその中で、確かに生きていること、かろうじて二つの命を育めたこと、
それは奇跡だとわかった。
時々思うのは、多分子供を産むって「自分たちの子供を作る」以上に、この世界をさまよう「何か」に人の形を「与える」、
生きる機会を「授ける」ことなんじゃないか、
自分の意志以上の何かが子供を持つということにはあると、ずっと考え続けている。
と言って、子供が欲しくない人に「産め!」とかは思わないんだけど。わからない人には決してわからないから。
閑散としていた山手線や渋谷駅は不思議な世界だったな、異次元に見えた。
ああいう経験を私はまたすることがあるんだろうか?あったとしても、それは不幸なものではないと思う。生きる、とはそういうことだ。