6月・雑談。

子供を持つ気のない人が、なんで結婚なんてしたがるんだろう、と実は不思議に思っている。
結婚に、子どもが持てる以上のメリットって何かあったっけ?と、まったく考えつかない私はどこかが壊れているのだろう。
「相手を愛しているから、結婚したい」、でも「子作り」を拒否する人は男女ともにいるようだ。
以前は、「夫が子どもを欲しがらなくて、、」の話をよく聞いて、
私は「そんな夫、いらないじゃない」と思ったものだが、(口に出すかどうかは別)
最近は、「妻」が子供を産みたがらないパターンもあったりして、考えさせられる。
男は、産んでもらうより他、子供を持ちようがないんだものなあ、、、、
女には「自分の子供を、自分の体で産む」が出来るけど。
自分は欲しくなくても、妻が「どうしても!」と言えば、「愛」のために(?)折れる夫はいて、
実際に子供を持ってみると、妻以上に子どもを可愛がる男性も存在して、
「こんなにかわいいのに、、、」なんて、涙ぐむ男性もいたりする。
そういう思いがけない喜びの経験が肉体的に問題がなくても「子供を産まない!」を貫く女性には出来ないんだよな。
相手のために、「折れる」を拒否する、それでも相手を「愛している」のかどうか、
多分、そういう人にとっては「愛し合う」が「愛される」「愛する」の上下関係になっている、
「愛される」立場が「上」で、「愛する」側に「犠牲」を強いることで、自分がより深く「愛されている」を確認する。
「愛されること」だけにしか、価値が見いだせないんだろう、
だから子どもを欲しがらないのかもしれない、子どもに「愛される」かどうか、不安だから。
「愛される」という「上」の立場にいなければ、自分の子どもとさえ、関係を築くことが出来ない、
そういう人が子供を持たないでいるのは、賢明な選択だろう、と以前は思ったんだが、
片方の親がそんな人間であっても、その子どもの存在を欲しがったもうひとりの親がいれば、
生まれた子供は十分幸せになれる、と最近は考えたりする。子どもはひとりだけの親から産まれてくるわけではないものね。
子作りが「結婚」のオプションになってしまったのは、いつからだっただろう。
私が結婚した20年近く前から、「子どもなんて、なんで欲しがるの」という女性はいたな。
「まだ若いのに、なんで、そんなことを考えるの」と、職場で責められたこともあった。
「自由でいたくないの?」と、子どもを「産まないこと」くらいで「自由」って手に入るんだろうか?と20代前半だった私は思ったもんだ。
子供を持つことと、精神の自由は別物だと、漠然と考えていた、
でも言葉には出来なかった、うっかり何かを言えば、猛烈に反撃される、
ただ、なんで子供を「産んではいけない」的な雰囲気があるのか、
職場には、子供を持つ女性もいたので、そういう人たちの前で「自由じゃない」を言う女性がいるのが不思議だった。
私は子供を持つ女性たちの仕事の進めかたが好きだった。根気よく、着実で、そういうやり方で、仕事をすすめられるようになりたかった。
子供を産んだら、それが出来るようになるかも、と考えたのはまったく短絡的だったとは思うが、まあ、20代はそんなもの。
結局、仕事は辞めてしまったんだから、それが出来るようになれたかどうか、怪しいモノだ、雑な性格はそう変わるものじゃない。
それはともかく、子作りが結婚のオプションになったことで、子育てに圧力がより強くかかるようになったという気がする、
「まともに育てることが出来ないのなら、なんで産んだ?」という圧力、
これは生命の意義を根本から覆すどうしようもない偏見だと私は思うが、私が考えるその意味が理解できる人はネットには多くはいないように思う。
私は、生殖の権利は、死刑囚にだってある、と考える人間だしね。
「育てられないなら、産むな」そこから転じて、「私は責任感があるから、子供を持つことを拒否しました!」、か。
婚姻が、子供を持つ意思のある人間の権利を妨げるようになる時代、
自らが選んだ、その配偶者によって生殖の権利を奪われた人間には、多分「自己責任」と言う言葉が重くのしかかる、
「そういう相手を自分が選んだ」、
「結婚」による「ロマンチックラブイデオロギー」に縛られるのは、男性の方が強いかもしれないなあ。
結婚は、今、セックス許可証か、空しいな。