まとまらない、だらだら雑談。

ネットであれこれ経験してきたおかげで最近ようやくわかってきたのは「よいお母さん」の条件とは「誰からも嫌われない」ことなんだな。
つまり、女の子として生まれた時点から押しつけられる、「誰からも好かれる子になりなさい」と言うこと。
毎年、人気のある子どもの名前が発表される時、その名付けの理由が男の子の場合、「強い子に育って欲しい」で、
女の子の場合「やさしい子に育って欲しい」「誰からも愛される子に育って欲しい」、
私はいつも、「やさしくなければ生きていく資格がない」のフィリップ・マーロゥを思い出すよ。
なんで「誰からも愛される優しい男の子に育って欲しい」が出てこないんだろうねえ、、、
女の子は、産まれた時から「やさしくて人に好かれる子になりなさい」、
でも、そういうの、「無理」っっ!!!!
と、わかるのが社会で生きていくことなんじゃないのかな、特に仕事を持つ女性が「誰からも愛される」なんて「神業」に近い、
もちろん、そんな人もごく稀には存在する、それでも、そもそも「仕事をする」とは何かを決めること、決めるというのは別の方策を否定すること、
それで別の方策が「よい」と判断した人からは否定されることだってあるだろう、「誰からも愛されながら仕事をする」って無理じゃない?
「働く母親」にとっての圧力は心理的なものが一番多いんじゃないかな、とよく考える。
「誰からも愛されるハッピーなママ」を目指しても、それは遙かな道のりで、
現実に育児と立ち向かえば不合理なことも多くて、それを呑み込めと言われても、飲み下すのに時間もかかる、
そうやって本当の意味での「母親」になると思うけど、「誰からも好かれる母親が一番素晴らしい」の理想にはほど遠い。
女性に「だけ」向けられる「誰にでも愛される子になりなさい」の圧力って、「母親」になってからもあるんじゃないか、
ま、要はどんな有象無象にでも「わかりやすい」それ「らしい」母親になれ、ってことなんだけど、私はこういうのは嫌いだ。
「それらしく」振る舞うことで、失うモノは「自分」、誰かのいい加減な「母親像」の「妄想」につきあうなんて、私は馬鹿馬鹿しくてやってられない。
二人の娘たちに名前をつけるときでも、私は「強い子に育って欲しい」と考えた、「強くなければやさしくなれない」んだよ、
そして「強い」とは「自分を持つこと」、「自分を見失わないこと」、
私は二人の娘たちに人に嫌われてもいいから、揺るぎなく「自分」であることを求めている、
人に「媚びる」ことは簡単だ、「媚びる」ことで愛されるのも簡単だ、でもそれは「自分」は「したくない」と、
それを理解してくれる人から「愛され」なさい、といつも願っている。
世間では「母親」になることを「自分の顔をなくすこと」のように思っている人が多い気がする。「子供を持つ気になれない」のは当然だ。
それまで培ってきた「自分」を全て「無」にして、「母親」の「仮面」をつける、それはやはり「不自然」なことじゃないかな。
なんだか、ちょっとまとまらないんだけど、昨日、ことが起こった後で必ず出てくる女の子への「自衛」論に腹が立って、それが何故か
よくよく考えてみたところ、薄ぼんやりと、女性がいつも不特定多数に「嫌われないように振る舞う」ことを強要されていることに思い当たった。
「母親」になることも、「人から嫌われないようにする」ことを強要されている、
ちょっと話は飛ぶが、今、勝間和代さんがネット上で叩かれているのを見るたび、この人がもし男性だったらここまで一斉に叩かれてるかな、と
ま、男性でも梅田望夫さんのように叩かれている人もいるけど、叩かれかたに違いがあるよな。
勝間さん叩きには「女はすっこんでろ」的な匂いが私には感じられるんで、何となくイヤだ。
「母親」になっても「誰からも愛される」なんて「無理」ですよ、「母親」は「万能」じゃない。
「理想」の人間「だけ」が母親になってもいい、なんて考え方じゃ、子どもはどんどん減るよなあ、、
だらだらと、まとまらないことをとりあえず書き留めておく。
男性が「誰からも愛されるすてきな父親になる」圧力を誰でもが感じるようになったらどうなるんだろうなあ、、、