ただのメモ。

少し前から何故かちきりんさんが「不妊治療」について考察していて、少子化を悪く思わない人が不可思議な、と思ったものの、
「混乱ラバー」であるのだから、やはり「数は必要」と考えられたのか、まあ、それはともかく、
意外に不妊治療は有効だ、は語られないのが不思議、私の周囲では治療を受けた夫婦は一組を除いては全員子どもを授かっているので
いやー、技術ってたいしたモノだなあ、医療って素晴らしい、と思っているのだけれど、何故か不妊治療で書かれるのは実はそれほど多くない「失敗例」ばかり。
それも少子化促進の原因のような、そういう点もちきりんさんには指摘してもらいたいような。(もうしてるか?)
紙に書かれたことはかなり特異な世界であることが伝わればいいのだけれど。
私の知っている一組だけの治療失敗カップルは、もし、夫にダイヤモンドユカイ的勇気があればひょっとしたら子どもがいたかも、だったりして、
「挫折」も選択肢のひとつであるのは当然のことだけれど、妻は今でもゆれる心を持ち続けるのがちょっと哀しい。
妻は40を過ぎたとき、やはり子どもを産まなかったことへの喪失感を強烈に感じて不安定になったり、今でも「50過ぎて初妊娠!」なんて聞くと恐ろしく心が揺らぐそうだ。
比べてはいけないのはわかっていても「私は子どもなんか若いときから欲しいと思ったことがない」と断言している知り合いがいて
その人は何故か常に自分がいかに愛されてきたか、愛されているか、を50を過ぎてまだなお数え続ける。
いつも誰よりも愛され続けてきたことを「私はこんなこと、なんとも思ってないけどね」的に語る、
その装っている「何気なさ」がわたしたち「子供を産むような馬鹿な女集団」には気づかれないと思っている、
何故、こうも他人を自分より下の存在でしかないと思いこめるのか、
「愛されている」以上の価値観を半世紀以上生きても培うことの出来なかった憐れさを見ているとたとえ大きな喪失感を抱いて年をとってきたとしても
「愛すべき存在をえたかった」の心はそのひとを豊かにするような、
同じような年代の夫婦で同じように子どもがいない、でも人生との向き合い方の違いがまったく違う、その不思議を思う。
多分「愛される」よりも「愛する」方が本当は大切なことなんだろう、
私は「私がいかにかつては両親に、今は夫に、愛されているか」を、本当にうんざりするほど「何げなく」言う人の話を聞く度に「愛されるだけなら犬や猫にでも出来る」と考える。
その人には「自分が愛された」しか話の中にはない、「自分が愛した」がない、その「欠落」は、「喪失感」よりも遙かに深刻なもののように思う。