津村記久子さんの言葉・メモ。

内外の「シャーロック」ファンサイトを読み歩いていると、みなさん、深いなあ、よくここまで読み(?)込めるモノだと感心する。
私なんぞは「見る」能力に大幅に欠けているな、などと、つい先ほど「映画を見る能力」の言葉をネットで拾ったので使ってみる。
「何かを楽しむには「能力」が必要」と言うことか、「能力」というか「才能」か。
「能力」「才能」で思い出したことを。
昨日、朝日新聞の「となりの乗客」で津村記久子さんが「幸せになれないということ」のタイトルで素晴らしい小文を書いているのを読んだ。
津村さんご自身が職場でいわゆる「パワハラ」を受けた経験をもとにして、その「パワハラ」をしていた人をこんな風に描写している。
「そのパワハラ主は最終的には私に逃げられているわけで、根こそぎの侵入も操作もできなかったということになる。
「逃げられる」がわかったときのそういう人たちの怒りたるやすごい。
地の果てまで追いかけてきて、背中に食らいつきたいと欲しているかのようだった。」
根拠なく相手より自分が「上」だと信じ切っている人間が、実は「そうではないかもしれない」の疑念を抱かされたとき
凄まじい憎悪を見くだしていた相手にぶつける、もうほぼそれは「怨念」である、私は自分が常に見くだされてきたのでそれをよく知っている。
若かりしころは「若くて弱くてなんでも自分の思いどおりになるに違いない」と思いこんだセクハラ男に、「それはない」を見せると必ずむき出しにされた醜い執着心だ。
何故そこまで相手が自分の思いどおりになるに違いないと思いこめるのか、それがいまだに不思議だが津村さんはこう綴る。
パワハラをする人は、パワハラをする相手を必要とし、依存している。一方パワハラをされる人は、パワハラをする人なんかまったく必要としていない。
ある種の歪んだ片思いのようである」
「同じように、いじめをする人は何よりもいじめる相手に依存している。自分自身だけで満足できる(自足)ことを探す能力がなく、
常に他人を必要とするわりに、他人に対して不自由なほど神経質である。
「気に入らないこと」への感度ばかりが鋭く、それをどう動かすかに執着している。
また、「どうにもならないこと」への耐性も低く、他人にあたることでしかそれをやり過ごせない」
「いじめをすることから脱せない人は、ろくな人生を送れないと談じるのではない、ずるく立ち回ってうまくやる人だっているだろう。
ただろくな人生を送っても、心底は満足できない。自足できないとはそういうことだ」
「頭に「不愉快」を察知するアンテナがありえない感度で立ち上がっている。
周囲の人を無為に傷つけ満たされることは永遠になく、壊れたラジオのように「気に入らないこと」を受信し続ける。死ぬまで。
これをおそらくは不幸という。」
私はかねがね「幸せになるのには才能が必要」と感じてきて、それがどういったものか、うまく言葉にあらわすことが出来なかったのだけど、
津村さんの「自足」の言葉で腑に落ちた、「自足する能力」が大幅に欠けている人は「不幸だ」は非常に鋭い指摘だろう。
思いどおりになることの少ないのが人間の人生で、それへの耐性が異常に低い人は確かにいる。
むしろそういう人は周囲に比べれば多少は恵まれた環境にいることが多いんだが、だからこそ、失われる感覚であるのか、
なんにしろ、他人にむやみやたらに力をふるいたがる人が存在するのは事実で、何故その手の人が力をふるえそうな人に異常に執着するのか、
「自足能力の欠如」は痛烈な分析だ。多分、この「能力の欠如」を認識する能力のなさも異常な執着につながるのだろう。
以前、ちきりんさんが「能力のない人間に能力以上のモノを求めるのは無駄だ」と書いていたのをみてなるほど、と思ったが、
だからといって「いじめ」を容認するわけにはいかないし、「パワハラ」「セクハラ」は大いに迷惑だ。
欠如した能力の犠牲をどこまで食い止められるか、それを考えなければいけない時期に来ているんだろう。
ある種の能力のなさを認めることで幸せになれる道もある、書く能力のあるひとはそのことをこの先伝導して欲しいと思う。
津村さんの本を読んでみよう。