読書メモ 佐野眞一「東電OL殺人事件」・おしまい

佐野氏が本で提示した被害者女性に関する情報は正確ではあると思うものの、その解釈が私と佐野氏では少し違う。
生意気なことを書くようだが、佐野氏は女性を分析するのがへたくそだなあ、なんて、被害者の心情を一番正確に捉えているのは
彼女と同じくやはり「依存症」を患っている中村うさぎさんではないかな?
私は相反する価値観に引き裂かれている彼女の混乱を中村うさぎさんがもっともうまく言葉に代えている気がする。
佐野氏は彼女の病を指摘することなく「堕落」「転落」と坂口安吾の言葉を持ち出したりして「発情」しているけれど
それをすることで、どこか彼女がとっていた「客」の一人となってしまっている印象をわたしは持つ。
彼の言葉では、彼女の母親や妹から話を聞くことはできなかっただろう、決して悪意はないものの、傷つけられることを覚悟しなければいけないとわかるのだもの、
耐え難い苦痛に晒された遺族にそれ以上の苦悩はもう必要ないだろう、被害者女性への理不尽な汚名と共に生きなければならない二人は本当に気の毒だ。
一番近くにいた人間が彼女の日常に心痛めながら長い間どうすることも出来なかったのも私には理解できるような気がする。
お互い、一番近くにいると言うだけで「甘え」がある、それは何を言っても相手を受け入れないかたちになる、特に心の病を得た人間にとっては。
だからこそ、一定の「距離」があるご親戚が彼女に助言をするべきだったと思うんだけれど。
本の最終章が彼女に関するくわしい情報と佐野氏の分析になっていて、斉藤学氏との対談などを読んでいると、
佐野氏は被害者を悼むあまり、彼女の母親や妹を責めているようにも感じられる。
最終章ではないが、被害者の葬式の映像で、被害者の妹と思われる女性が骨をおさめた白木の箱を「安っぽいネッカチーフで包んでいた」と書いていて
「安っぽい」の言葉に私は違和感を憶えた。
「白絹がふさわしい」と考えた男性の佐野氏とは違って、私はその「安っぽい」とされたネッカチーフは、被害者女性が愛用していた遺品じゃないか、
味気ない白絹に包むより、「安っぽく」見えても鮮やかなネッカチーフで包んであげる方が彼女が喜ぶと妹や母親は考えたんじゃないか、
それも想像でしかないものの、私には遺族なりに理解されなくても深く彼女を悼む心があったと思う。
佐野氏は母親に手紙を送ってもなしのつぶてだったので、その妹に接触を試みようと、あとをつけさせたことがあったようだ。
しかし、自宅から出て、遠回りして自分の姉が殺された駅の近くを通らない電車に乗る彼女の姿に声をかけそびれたそうだ。
それでよかったのだ、毎日、彼女は姉のことを思っているのだから。毎日のその行動は「祈り」なのだろう。
佐野氏もあえてそこで接触しない「節度」を持っているのが素敵だ。「ジャーナリスト」を自称する人間とはひと味違う。(気がする)
書けば書くほど、書きたいことは山ほど出てくるのだけれど、とりあえず終わりにする、果てがないのだもの。
孤独というのは不器用だ、と最近のわたしはしみじみ思う、不器用だから孤独になる、と以前は考えていたものの
今は孤独そのものが不器用なのではないかと感じる。孤独になると不器用になる、その不器用さに悪はつけ込む、
殺人事件被害者の孤独とは、そういうものなんだろうか、などと、私もいつか孤独になり不器用な存在になるかもしれない。
でも、わたしが所有する命を赤の他人に奪われたくはない。彼女を殺した真犯人がいつか捕まるのを心から望む。