読書メモ 佐野眞一「東電OL殺人事件」その2

佐野氏は本の中でよく怒る。
この「殺人事件」後に被害者のプライバシーを暴き立てたマスコミへの怒りなどはじつにごもっとも、
彼女のあられもない姿を載せた雑誌もあったとは、それを雑誌に寄せた男もクズだが買い取った編集者もクズ、
事件当時すでに高齢だったであろう、被害者の母親が声明を出したなんてことを今回初めて知った。
さて、佐野氏はネパールに取材に出かけても怒っている。
そこで出会った「人権」を口にするだけで実質的なことは何もしない現地アムネスティに怒る、
自国民の権利を侵害されているにもかかわらず、日本政府に及び腰なネパール政府にも怒る。
日本に帰っても、「被害者にも人権を!」と売名行為みえみえの「人権派」に怒り、「東電OL」と書かず「電力OL」と書きはじめた朝日新聞に怒り、
被害者女性を見過ごした社会にも怒る、警察にも怒る。
警察につけいられる隙のあった加害者にされたネパール人にもやや怒る。
それから、この事件に「発情」した自分にもちょっとだけ怒っている(気がする)。
この「発情」という言葉はとても印象的だ。
結局「エリート大和撫子の命を下賤なアジアの男が陵辱して殺した」の物語を警察が作り出せたのは、
この「発情」があってのことではなかったか。その上手に作られた「物語」は「発情」した人間たちに大変説得力を持ったのではないか、
佐野氏のこの言葉は当時の社会の受けとめ方をひとことであらわしている気がした。
事件のころ、ちょうど被害者女性より10年上で40代最後だった佐野氏にとってこの事件は半世紀生きた自分の区切りだったんだろうか?
被害者や加害者とされた人が関わった土地を巡りながらの取材は、佐野氏に被害者女性が憑依したかのようだ。それが氏の書く「スタイル」らしい。
それだけに正確な被害者女性の情報を書いているような、被害者を中途半端にあげつらっていない点で評価できると思う。
佐野氏がもたらした情報のいくつかを組み立てると、私には憐れな女性が3人見えた。
被害者女性とその母親と妹、すでに社会に見捨てられていたのは、殺された彼女だけではなかった。
この本を読んで、私も佐野氏が憑依したかのごとく(生き霊?)腹がたったことがひとつあった。それはまた後日。