ネット雑記。

内田樹先生の「今の社会のあり方が学生の姿勢に反映されている!」を読んで、それは今に始まった話じゃないなと思う。
私が若いころ、「最低限」のことすらせずに単位をもらう話をよく聞いたものよ、、、
それでも「社会」はそれを許していた、その当時の社会の甘さに比べれば今の社会の厳しさと言ったらないわ。
まだイマドキの若者は「最低限」のことでも「しなければいけない」と思うだけ昔より「まし」じゃないのかな。
先日、「秋入学」について朝日新聞苅谷剛彦と日産の社長の意見を読んだことを思い出した。
読み比べて、暗澹たる思いに駆られたわ、
日産の社長の意見はシンプルで「日本の男子学生はもっとほかのアジアの学生のようにやる気を見せて欲しい」で、
苅谷剛彦は「大学院をもっと増やして学生に勉強させろ」と、「会社」が求めているのは学生の勉強の「量」ではないのだよね、
そんなものより「本人の熱意」、こればっかりは知識がどれほどあったとしても、身につくものではない。
会社(つまりは「社会」)が求めている学生と、大学が出したい学生は見事なまでにミスマッチしていて、
こりゃあ「就活」にマジメな学生が苦労するのはしかたがないな。
大学の先生に言われた勉強「だけ」をしている学生が社会で評価されるわけではないのよね。
大学の先生の学生へのぼやきはネットでよく読んで、
でも、入試の時点で、大学側はどのような学生が集まるか、ある程度の覚悟はあるはずなんじゃないのかな。
お偉い先生の中には「私の指示に従えない学生なんて留年しても当たり前!」と宣言されるようだけど、
もともといまいちな成績であるが故に入ったような大学すらもまともに出られなかったとしたら、
もう「バカ」のお墨付きをもらうためだけに大学に高い金を払ったことになる。それでは、親は子どもを大学には行かせなくなるだろう。
そうなるとその大学は淘汰されて、あほ学生もいなくなるかわりに先生方の職も失われる、
大学がなくて困るのは学生よりむしろ先生の方なのよね、今の時代。
「大学の先生」という「肩書き」を失ったらそのご立派な学歴の「保証書」は何もない、って人が結構いるものね。
「良識」をとるか「常識」をとるか、先生も辛いわね。
時々、「学歴」だけで大学の先生を雇わないほうがいいんじゃないか、と思うな、
優秀な学生が集まらない大学は、社会の一線で成果を上げてきた人を雇うほうがいいんじゃないか、
先生を辞めてもすぐほかの技能で食べていけそうな人を期間限定で採用した方が、大学のためにも、また社会のためにもなる気がする。
すでにそうしている大学が多いかな?社会をよく知っていたら学生に過度の期待をする先生は少なくなるのかも。
「イマドキの学生は勉強しない!」「社会がわるい!」とある種の大学の先生方がお怒りになられても
優秀な学生の集まる大学では、やはりそれほどでもない大学の学生に比べたら遙かによく勉強するし、
優秀な彼らはその勉強が社会に出てもさほど評価されないことをとっくに知っているのにもかかわらず、必死に勉強する、
勉強することがいわゆる「アイデンティティー」でもあるからだ。その姿に私は泣ける。
どれほど過酷な社会に子どもたちを放つのか、お気楽な時代に青春時代を過ごした自分を今さらながら責めるわ。
お気楽な時代に生きて来た先生が過酷な時代を生きていく学生を指導する不可思議な世界、若者よ、がんばれ。
そういえば、学生時代、「オレはこの大学を出た証明書さえもらえればあとはどうでもいい」と言い放った某旧帝大生は
ほとんど大学にも通わず、ゼミの先生の顔も見ず、その顔を拝みに言ったのは、「卒業させてくれ」と頼みに行ったときくらいで
彼は当時としてはめずらしく新卒で外資に入社し、その後独立した。
この数年の大嵐もなんとか切り抜けて、軽井沢に別荘を構える生活をしている。
中年過ぎると、荒れた社会を生き抜く猛者を知っていたりするので、大学の先生の憂いとか、ピンとこなかったりする。