あの事件のこと。

「木嶋被告」の検索記録が毎日のようにあって、私のようなところまで来るひとがいるとはやはりネットに存在した被告への興味は
みんな、並々ならぬものがあるのだな、と今さらながら感心する。
私は裁判中、北原みのりさんのツイッターを時々読んで、北原さんの検事に対する個人攻撃にうんざりしてしまった。
北原さんはこの裁判を「男対女」に見立てて、「頭でっかちの性差別者である男性検事」対「けなげな女性・木嶋被告」であるかのように、
本当はどうか確認できない検事の性志向までを決め付けて揶揄をしていて、その別の意味での差別発言に私は辟易としてしまう。
検事が代表しているのは「国家」であり、被告である「個人」の代弁者である弁護士とは立場がまるで違う。
北原さんが検事が顔のない「世間」と「国家」の代弁者にならざるを得ない点をまったく理解していないのは、
公平性にまったく欠ける考え方をしていると思わざるを得ない。
北原さんをフォローしているとある方のツイッターから最近の発言も目にしたが、相変わらず検事を意味なく攻撃していてイヤになる。
多分北原さんとしては「検事=エリート=差別主義者=女性のことなど何も理解しようとしない」としてしかとらえられないんだろう、
北原さんが攻撃すべきは検事の性志向ではないことがわかりそうなものだが、はじめから「男対女」の観点でしかとらえるつもりがないのだから、しかたがないのかもしれない。
国がこの裁判に男性ではなく女性検事ばかりをあてたらどうだっただろう、女性検事が同じことを言ったとして、北原さんはその女性検事個人の性志向を揶揄したのだろうか?
なんにせよ、この事件の北原さんの姿勢を見て、私は北原さんをまったく支持する気がなくなってしまった。
正直、韓流男性を妙に持ち上げる記事を読んだとき、まるでフィリッピーナを「日本の女と違って素直でやさしい」などと買いあさるバカ男どもと同じ嗜好を感じて
呆れてしまったんだが。
私は木嶋被告にまったく同情を覚えたことがない。
これは自分でも不思議で、たとえば先日懲役30年の判決が下った凄惨な大阪2児放置死事件の被告に対しては、
許されないことをしたのはわかっていても、どこか同じ女として憐れに思う。
女が被告となる事件には常に同情心を覚えるが木嶋被告の事件にだけはそれがない。
何故かよくよく考えてみて、この事件は「男対女」の事件であるかのように見えるが実際は「弱者と強者」の事件であるのに今さらながら気がついた。
この場合「弱者」は女である木嶋被告ではなく、金ばかりではなく、命も失ってしまった男性被害者たちだ。
木嶋被告は「強者」で、この事件は明らかに「強者」が「弱者」に力をふるった事件でしかない、
何人もの人間から巧に金を引き出してきた木嶋被告にとって、世間に迷惑をかけるわけでもなくひっそりと一人で生きてきた孤独な男性を言いくるめるなど、
赤子の手をひねるよりも簡単だったろう。
弱者が弱者であるが故に食い物にされた事件を「性」の問題だけで妙にドラマチックに仕立てあげられるのは何故なんだろう?
もし、被告が男性で、被害者たちが女性だったとして、同じように面白がられるか、と言えば、どうだっただろうか?
命を奪われた「女性」被害者たちをバカにして、「男性」加害者を支持する人間がいたとして、それを「世間」がどう見るか、
まあ、「世間なんかくそくらえ!」な人がそれをやってしまうわけだから、それをどうこう言うつもりはないが、
木嶋被告を特別な存在であるかのようにとらえることは、結局「性への差別心」はそれを糾弾する側にも大いにあると言うことなんだろう。
北原さんの入れ込みぶりを目にして、いろいろ気づかされた点はあって、この事件が明確に強者が弱者を搾取した事件であるのをはっきりわかっただけでも
北原さんには感謝しておくことにしよう。
自供のない、状況証拠だけの事件を裁判員裁判はどう判決を下すのか、今はそれだけに興味がある。