雑記。

とあるところを読んで、ここ何年か、考えていることを残すことにする。
1年以上前に、知り合いがご兄弟の妻が子供を産んでくれないので離婚したい、の話をしてくれて、
そのときの知り合いの言葉で強く印象に残ったのは
「弟の子どもは欲しいけれど、自分の夫の子供を産みたくない女の子どもはいらない」で、
その知り合いは「彼女は自分が何を他人から奪おうとしているのかわかっていない」
「自分の結婚相手の子供を「産みたくない」というのは、相手につながるすべての家族から、当然得るはずだった家族を奪うことになる、
私にとっては姪や甥、わたしの子どもにとっては「いとこ」たち、私の両親にとっては孫、
そういう存在のすべてを否定している自分の傲慢にまったく気がついていない、そんな馬鹿な女に子供を産んでもらいたくはない」と、
なるほど、私にはその発想はなかったので考えさせられた。
その知り合いをまったく知らない別の年下の知り合いに、ちらりとその話をしたところ、地方(の、たぶん旧家)出身の彼女が私に言ったのは
「もし離婚しなかったら、その奥さんは旦那様のお家のお墓にはいるときに旦那様のご先祖様に申し訳なくは思わないんでしょうか?
「自分が子供を産みたくなかったので、このお墓にはいるのは私が最後です」ってことになるじゃないですか、
続くはずだった「家」の子孫を自分「だけ」の意思で絶ったことになるでしょう?」と、
私よりも5歳は下の彼女に「家の墓」という発想があることに私は驚愕したけれど、言われてみればそのとおりだ、
でもその「妻」はそこまで考えられる人ではない、と言うか、そういう育ち方をした人ではなかった、が
結局は自分の夫に相当の執着心を残しながら「離婚」にいたらざるを得なかった彼女の憐れさだろう。
自分が結婚した相手の背景に何があるのかが見えない、
自分の夫は非常に裕福な家庭の出身で、そこからくるメリットを享受するにはある種の「責任」も伴うことがまったく理解できなかった、
子どもを作る、作らない「以前」の問題として、そういう不一致も離婚の原因になったんだろう、と私は感じている。
実は、「子どもなんて何故欲しがるの?」と自分の夫に言い放ったらしい元妻の言葉で私にいちばん印象深かったのは
「子どもを欲しがるなんて、男らしくない」で、
「私には生まない権利があるのよ」と、他人の権利を平気で奪っておきながら、自分の権利だけは主張する、それにも驚かされたが、
自分が子供を産むという最たる「女らしさ」を放棄しながら、相手には「そういう私を受けとめて!」と「男らしさ」を要求する、
その矛盾に気がついていない鈍感さにも考えさせられた。
「子どもを欲しがるなんて「女」がすること」と、彼女は考えていたようで、
それが「産む女」への蔑視であることはわかっていない、この先も理解する能力はないんだと思う。
「欲しくないから作らない」と夫婦で一致していても、どうも40前後になると迷い始めるらしく、
去年、私の娘が東京で生活を始めるにあたって、ごちゃごちゃ口を出してきたディンクス夫婦が、
私以外の子持ちの知り合いにも同じようなことをやってうざがられたようで、
そんなに他人の子どもにいらないお節介を焼くのなら、いっそ今からでも子どもを作ればいいのに、と思うけど、それは「出来ない」
今さらそれをする「勇気」はない、でも、若い世代と「関わりたい」、
彼らの迷走行動にはどこかいじましさがあるのに私はうんざりしていて、同じように別の知り合いもそれを感じているようで、
でも彼らにわたしたちが感じる不快がわからない、見えない、
それが「子どもなんていらない」と言ってしまえた人の鈍感さであるのだろうな、と考えている。
いい歳になると、いろんなことを見たり、聞いたり、知ったりして、簡単に「主義主張」に同意は出来なくなる。
「産む女」への女性からの蔑視を折に触れ、書いておきたいと思う。
たぶん、その根底には「私は「男」に認められたい!」という異常なほどの渇望があるんだろう。
「私は「女」みたいなことはしない」という女性側の女性蔑視はもっとも情けない「女らしさ」に思う。