上野千鶴子氏の記事を読んだ。
「今の女達は助け合わない」とは
本当に「子育ての経験はありませんが、たくさん取材したし、仲間もいたから覚えている」人が書ける言葉かな?
たくさん取材したのは、いつ?と聞きたくなる。
取材したのはたぶん相当「過去」のはず、今も「取材」していたとしたら、とても書けない言葉だわ、
これで「たくさん取材した」が匂わせてきたものが「ウソ」だとあからさまになっている。
結局、「子育て」は「取材した」「見てきた」だけではわからない。
この事実を、現実を、まず上野千鶴子氏から認めてもらいたいとわたしは思う。
正直、どれだけ「見てきた」「調べた」、「だけ」の言葉に私は騙されてきたことか。
子供を産んでも、自分以外の子どものことはわからないものだから、と、
若いころは謙虚に本に書かれてある言葉に素直に従ってきた気がする、こんな私でさえ。
しかし、子育ては大学進学までと考えてきたわたしが今はっきりいえるのは
子育てで、もっとも役に立ったのは、やはり子どもを育ててきた人たちの言葉だったと言うことだ。
「見てきただけ」の人の言葉は情けないほど「机上の空論」、
「私にはわからない」が決していえない人たちのくだらないタワゴトでしかない。
しかし、これを書くと「じゃあ、男は?」と言い出す人が必ずいる。
「オレたちはすべてわかっている!」と言いたがる自分万能主義の男たち、
そう、男に子どもは「産めない」、そこが男の最大の弱みであることを
「子どもなんかうまなーい!」と言ってきた上野氏に代表されるような「強者女性」は突いてこなかった。
「産まないけど、周囲を見てきて全部理解できている」とは「産まないけれど、子育てはわかっている!」という
男の「理屈」を保証してきたようなものだ。
「産まない」とは結局「男のようになる」事でしかない。
私は、そこが今日のフェミニズムの最大の問題点であると感じている。
「産む」「産まない」を選択と考えられることで、「産む」側の負担は昔以上に重くなった。
「産まない」事で「私は、自由!」と歌いたがった現在44歳の私以上の世代の人間の負担が
今の世代にいたるまでのしかかってきている。
「女が産む、産まない、を決めること」によって、実際、男の負担はぐっと軽くなった。
「産みたい?それって、君の自己責任だよね」、その言葉を、自称「フェミニスト」の男性は軽く言ってのけたものだ、
「ボクはほしくない、でも君がほしいのなら産んでもいいんじゃない?でも、それは君の選択だからね、ボクには迷惑かけないで」
って、「君の選択を尊重する」を匂わせながら、じつに巧みな責任転嫁、
私はこうした一見「フェミニズム」的な言葉に泣かされてきた女を何人か知っている、聞くたびにはらわたが煮えくりかえった。
でも「子供なんて産みたくないから産まない」は裏側に「私は「母親」らしくない女だ」があり、
それは「子供を産む女は母親らしい女であるべき」を保証している。
「産みたいなら、世間一般にある「母親らしい」女になれ」と言うことだ。
それは「子育ては母親の責任」という男に都合のいい理屈だ。
結局「産めるけど、産まないだけ、私は自由」なんてのは、ほかの女性に自分が本来担うべきだった負担を押しつけることでしかなかった。
そんな女性に今さら「今の女達は助け合わない」なんて書かれたくはない。
ここまで書いてきて、今さら、という気はするが、
私は上野千鶴子氏のしてきたことにある程度、感謝の念もあるし尊敬心も抱いてきている。
しかし、上野氏の時代のフェミニズムが押しつけてきた負担を上手にごまかす記事にはまったく賛同しない。
あなた方の残したフェミニズムの負の遺産をわたしたちは否応なく払わされ続けている、
その現実をもっと「産まなかったこと」で「わからなかったこと」を認めて、はっきりさせてほしい。
「産まない人間にはわからなかったこと」を明確にすることで、フェミニズムの本質的な役割をとり戻すことが出来るとわたしは思う。
フェミニズムを支持しているものの、知らずに担わされたさまざまな理不尽への怒りの一端をここに書いておく。
言いたいことはほかにも山ほどあるし、書いたものにまとまりがないのは承知の上で、とりあえず、ここまで。
追記;むかっとしていたので、書くのを忘れていた。
今の世代でも助け合いはしております、意外でしょうが。上野さんが知らないだけと思います、はい。