雑記。

最近不思議に思うのは、なぜ若いころ「イマドキの若者は、、」に反発していた人間が
年をとると、反発してきた相手と同じことを言い出すようになるのか。
私は年長者に反発したことは(少なくとも表立っては)なかったし、「イマドキの若者はダメだ」も言ったことはない。(たぶん)
子どもがいるから、その「イマドキ」論がまんま自分にはね返ってくるからかもしれないが。
上野千鶴子氏に「イマドキの子は助け合ってない」なんて言われる筋合いはないわ、まったく。
つながり方が、上野氏の「世代」とは違うだけ、そんなことも理解できないほど劣化しているのか、情けなくなった。
フェミニズムに関しては、「結局なんだったの?」と尋ねたくなることが山ほどある。
それはまたそのうち書き残しておこうと思う。
先日、ちらりと見かけた「ヤリマン総選挙」なる記事をあらためて読んで、「だから、何?」とため息が出る。
「自己決定権」の言葉で飾られてはいるけれど、私には「男のマネをして喜んでいる女達」にしか見えない。
ずば抜けた才能でも示さない限り、数多くの女と寝たことを自慢にする男の評価が社会的に高くなるわけではない。
私は若いときから女と見境いなく寝る男を軽蔑してきたので、それを女がやっても、軽蔑の対象が同性になるだけの話だ。
やりたきゃ、やれ、でもそれを軽蔑するのはこちらの勝手、「自由」なんて言葉で騙されたくない。
何を勘違いしているのか、20年前でも、屈託なく男と寝る女は当然のように存在していたというのに、
そのことを知らなかったらしい「作家」など、何を「かまとと」ぶっているのか、ばかばかしくて呆れてしまう。
それが「ジェンダー」か、「フェミニズム」か、
結局、「優等生」しかまわりにいなかった人間にとってはセックス程度で「私は自由になった!」と幻想を抱くのだろう。
学生時代、サークルの先輩に「君は自由になるべきなんだ、セックスなんてたいしたことじゃないんだよ」と、誘う人がいた。
本人曰く「自由になるために早めに処女を捨てるのは重要」と、その彼が「フェミニズムとはね、、」と私に語ってくれたものだ。
彼が狙うのは常に未経験な女の子ばかり、中にはそれに乗るマジメな女の子が存在して、
私はセックスをすることで自由になれる幻想を抱いている人間がいるのか、と考えこむこともあった。
セックスが「自由」に直結する「特別」なものならば、そんな「やるだけ」のバカ男の相手をすることなんか無駄じゃないか、
結局、私は最後の最後まで彼の誘いに乗らなかったので「君は固いね」と、バカにされた。
私には「一人の男と100回やるのと、100人の男と1回づつやるのは同じ事」とのたまう知り合い(=女)がいて、
彼女もなぜか、女経験のない男とばかりつきあって(?)いた。
経験豊富なもの同士がつき合えばいいのに、と当時は思ったものだが、
今にして思えば異性未経験者とばかりつき合いたがるのは彼らは実は自分に自信がなかったからかもしれない。
未経験なものばかり相手にしていれば、比べられることがないし、
つぎつぎ相手を変えれば、自分の人間としての底の浅さを突きつけられる事はない。
いつの時代も、一人の人間と安定して関係を築けないのをセックスとからめて豪傑ぶる男女は存在して、
そういう人は「ヤリ○ン」(「ま」でも「ち」でも好きな言葉を入れるがいいさ)と呼ばれることになんの屈託も感じないので
そんな人間と同じように振る舞えることが「自由」ならば、「自由」になんてなんの意味もない。
自分が「珍奇」と感じたものを「新しい」と感じ、かつての自分自身と同じ姿を「イマドキの若者は」と評する。
なんとばかばかしいことか。ばかばかしいことをだらだら書くわたしもばかばかしい、もうやめよう。