「表現の自由」、ネットの悪意、いろいろ。

スマイリーキクチさんの事件に関する記事がネットにあげられて、興味深く読んだ。
あの事件が「不起訴」で終わったとは、知らなかったなあ、民事訴訟は起こされなかったのかな?
もう今「スマイリーキクチ」と言えば「お笑いタレントさん」であるより「ネットの深刻な被害者」を思い浮かべる人が多いんじゃないか。
「被害者である」と言うことは、「お笑い」の世界を職業として選んだ人にとって、無視できないマイナスポイントになりうるだろう。
明らかな「業務妨害」が「不起訴」で終わらされたとは、なんだか納得できない気がする。
ただ、スマイリーさんは体を張ってネットと戦ったひとかどの人物として私の中で記憶したので、これからのさらなる活躍を心から期待している。
この事件に限らず、学生の悪ふざけをネットでさらしたものを時々目にして思うのは、それをしている人間がどこかで
「誰かコイツの将来をむちゃくちゃにしてくれよ、あ、オレ?オレは別にそういうんじゃないから、ただ意見してるだけ、
別にコイツを罰してやろうってわけじゃない、ただ「意見」を述べてるだけだから」
「誰かがやれよ、おれはちがうよ、ちょっとそれを後押ししてるだけだけどね」ってな、自分の「悪意」をまったく認識していない、
その自身の悪意への無自覚さ、と言うか、悪意であると言うことすら「どうでもいい」、そういう「感覚」が私には怖い。
これはネットでの「識者」的な人間にもよくあるもので、
「ただ、なんとなーく思ったことをブクマに書いただけ」「ちょっと、気がついたことを指摘しただけ」
「それに対するほかのみなさんのご意見は私にはかかわりのないことですよ」と
確信犯的に炎上をめざしているのに、いつでも自分は確実に逃げられるように周到に言葉を選んでいたりする、
いやはや、そこまで他人に巧妙な悪意を抱けることにある意味感心するわ。
「言葉ひとつで人間をどうにでも出来る」と、実際そういう部分はこの世界では大いにある。
でも、その言葉は、自分には決して向けられたくはない、ただ「神」のように蟻の行列をちょいといじってみたい、
出来れば自分には目障りな蟻をいじり殺して、自分の「力」を示したい、
しかしその「欲望」を他人に知られたくない、いや、他人に知られるはずもない、なぜならば、自分は「神」だから
ってな、ネット上のすごい「神様」に私は何度で会ってきたことか。ネットも浮き世と同じで八百万の神様がいるなあ。
私は「表現の自由」を大切に考えていて、それが何故かというと、言葉で攻撃してくるものとは、結局言葉で戦うよりほかないから、で、
ネットに日記を長くつけているとそれなりに異常な「粘着」にも出会ってきて、そういう人間は気に入らない私に「書かせたくない」
「書かせないためなら何が出来るか」を常に考えて彼らなりの「攻撃」を仕掛けてきて、
そういうくだらない攻撃にいちばん効果的なものは何かと言えば「書き続けること」、表現し続けること、
何故、彼らが私に書かせないように必死になるか、気に入らないなら読まなければいいだけなのに、といまだに彼らが理解できないが
書き続けていくうち、異常粘着者はいずれ去っていく、ま、別の名前でやはり戻ってくるようだけどね。
つか、バレバレ、みえみえのいくつものアカウントをとって、同じようなことをくり返していたりして、
こういうのを一掃しないとなかなか「ブログ」の存続はむずかしい気がするなあ、この先どうなるやら。
表現の自由」は誰にでもある、と言ってるヤツに限って、実はその「自由」は自分「だけ」のものにしたい人間がいる現実を時々感じる。
誰でも「書く自由」、「書き続ける自由」はあるのにね。
表現の自由」に関しては、まだまだ考えないといけない事として、メモ。