私信。

いつも楽しみに見せていただく日記で、気になる言葉を見かける。
「悲劇のヒロインになりたがる」とは、先生が低学年のお嬢さんに向ける言葉としては鈍感すぎるような。
先生が言われたお嬢さんへのさまざまなご注意を読んで私が思い浮かべたのは「赤毛のアン」。
たぶん、「赤毛のアン」が現代の小学生だったとして、きっと同じようなご注意を先生からされただろうな、
実際、本の中でもそういう部分があったような。
赤毛のアン」のような、想像力豊かな、意欲のありすぎる女の子はさまざま失敗をして、その度、まわりの大人をハラハラさせて、でも愛されて、育っていくんだと思う。
心配する側の大人は、「どうなってしまうのかな?」と思うのは当たり前なんだけれど、
実際、アンを育てていたマリラは常に心配して右往左往、本当に困ったときは子育て経験のあるリンド夫人のアドバイスをうかがいに行ったりして、
事なきを得る、と言うか、それなりに自分でも考えて、アンは多くの大人に見守られて幸せな大人になっていく。
先生は、心配されて言われるんだろうけど、それがわかるだけに親の立場としては辛いよね。
信念を持った大人が子どものアンを形容したらやはりかなり「鈍感」な言葉になるのはしかたがないかもしれない。
でも、もうちょっと気をつかった表現をしてくれてもいいよね、とわたしは思った。
子どもが小さいうちにいろんな事を教えておかなきゃ、と、親は必ず考える。
でも、今ふり返れば「無理」だったような、「あせり」は禁物、
と言って、「あせり」まくりだったわ、のど元過ぎればいえることで、まったく人間はどうしようもない。
子育ては精神的にきついときが時々あるね、でも、人が人を育てるってそういうことなんだと思う。
辛いときもなければ、人を育てていくことは出来ない。最近、そう考えるようになった。
それでも、人を生み出し、人を育てることは、この世の何より尊い
初対面では「あんな子はろくでもない」とアンを形容したリンド夫人は後にアンを「光のようにとらえどころのない子」と言った気がする。
実際、アンはそのとおりの存在だった。
よけいなお世話をひっそりと。