メモ。

朝日新聞「耕論」に「オウムという時代」のタイトルで3人のオピニオンがあって、今「レッド」を描いている山本直樹氏の言葉が印象的だったので、抜粋しておく。
「「閉鎖環境で言葉だけが暴走する」という構造」、「ネット」を語っていると考えてもおかしくはない、
そしてそのようになったネットで、何度「リンチ」を見てきたことか。
以前、はてなの近藤氏が「ネットも社会も同じ」と言った言葉が思いうかぶ。そうなのだよなあ、これをどうにかする手だてをいつか思いつかなければいけないのだよなあ、と
そういえば、hatenaがブログになってどうのこうのと、招待が何とかって話があったな、どうなってるんだっけ。
それはともかく、ほか二人に比べて山本直樹氏の意見は、あれほど丁寧に「連合赤軍」をとらえなおしている作家だけあって、素晴らしい。
「人間には「今ここにいる自分が正しい」と思いこみたくなる性癖があるのでしょうか」とか、
「人生にはそうした思いこみで突っ走るのが必要なときもある。、、、活動家たちの思いこみが必要でした。両刃の剣、なのでしょう」とか、考えさせられる。
と言って、連合赤軍のやったこと、オウム真理教のやったことが受け入れられる話ではないのは、当然のことなのだけれど。
「正しい」という「言葉」にこだわりすぎると「生活」が「出来なくなる」というのはこのたびの震災による原発事故以降、
ごく一般的な生活をしている人間にとっても、痛感できることになって、
「ラララ、科学の子」を公称する派の夫と「マザー・ねいちゃあ」に寄りかかる妻と、そういう家庭も一種の「閉鎖空間」
そこでも「言葉」が暴走して、破綻に向かうのか、それとも何かの「答え」が見つかるのか、
私は「正しくなくたっていいじゃないの」派、なんだけれど、それはまた別の意味での「正しさ」に寄りかかっているだけなのかな?
まあ、「それでもいい」が私の「答え」だけれど。
しかしここで東浩紀って「作家」になっているのね、いやはや、知らんかった、この人の正式タイトルってなんなんだろう、今回のツッコミどころ満載の「お話」にはいらっとさせられる。
「僕より下の世代は個別の分野についてコメントすることは出来ても、、云々」にいたっては、
あなたより若い世代がもう少々賢くなっているってことですよ、とアドバイスしたくなる、
「言葉の上に言葉を書く」事の無意味に、この人以降の世代で気がつき始めたって事ではないのかな、「俯瞰」なんてのは人間には出来ないってわかったんじゃないすかね?
「煽られ」てどよめくことの無駄に、下の世代が気がついた、と私は感じているんだけれどね。
中瀬ゆかり氏の意見も私には興味深かったので、また明日にでも、めも。