あたたかさが教えてくれるもの。

先週、初めてした大腸内視鏡検査が、ベテランの先生にしていただいたにもかかわらず思いがけず痛くて、
体をこわばらせた私の手をギュッとにぎってくれた看護師さんの手がとても暖かく、ありがたかったことが心に残っている。
見ず知らずの患者の痛みに手をさしのべてくれる、医療関係者としては当然の行為なのかもしれないけれど、
ごく自然にそれが出来るのは本当に素晴らしいと、あらためて思う。
それまで感じていなかった心細さをようやく受け入れることが出来る、自分が弱っているときは「弱っている」と自覚しなければいけないことを
学んだ気がする。
「無理をする」事は決して美徳ではないのだと、私はここ数年、よく自分の母親にその言葉をくり返してきて
その言葉が母を傷つけることを知っていても、それが何故母を傷つけるのか、今ひとつ、理解できなかった。
でも今は、私はなかなか出来ないことを母にやるように求めていたのだなあ、と反省している。
なんでも「出来る!」と突っ張っているのではなく、たぶん、長く弱り続けていると自分が「弱くなっている」事がわからなくなる、
それで「無理」が「無理」とは感じられなくなる、なんだかわかったような、わからないような話なんだが、
「衰える」事の哀しみがなんとなくわかってきたような、
いちばん弱った人を見ているひとには弱った人に何をすればいいのか、よくわかっているのだね、
あの看護師さんの手のぬくもりを私はこの先忘れないと思う。
そしてネットで、その言葉が私に向かって放たれたものかどうかわからないのだけれど、手のぬくもりを言葉で伝えようとしている人がいて、
私はその言葉に暖められる。哀しいことをたくさん知っていることは本当は素晴らしいことなのだね、
そして、そういう「出会い」がひとつでも見つけられるから生きていることも、ネットに存在することも、楽しいのだと思う。
これから、時々更新は滞ると思うのだけれど、ご心配なく。「弱る」事を今、学んでいる途中です。