むかしばなし。

育児が終わりかけたら、親とつきあう時間が増えて、順調に年をとっていってるな。
親といると、不思議と遠い昔を思い出す。
いつまでも「親」に対しては「子ども」であるからか。
あれは、小学校4年生の時だったか、
「おまえのかあちゃんはめ○らに金をもらっとるから、おまえはいつか目が見えなくなる、みんなそういっとる」
同級生から憎々しげにそんな言葉を浴びせられて、私は一時期、学校に通えなくなったことがある。
母は小学校近くの、主に目の不自由な方が自立生活をするための支援施設で働いていた。
30年以上も昔、しょうがいを持つ方への偏見は、今よりもはるかにすさまじかった。
施設で働いている人間も、まるでそのしょうがいが「うつる」ものであるがごとく蔑んで、
そこで働いている人間の家族も、当然軽蔑の対象になると考えられていたようで、私たち兄弟はその手の言葉を何度か投げつけられている。
今でも、母は一番近くにある歯科に行くのを嫌がって、以前何故かと聞いたら、
母が私か弟かを妊娠している時期に、職場からしょうがいを持つお子さんを連れて行ったとき、そこの歯科医に
「あんた、こんな子の世話して、自分の生まれてくる子供もそうなると思わんか」と聞かれたことがあるそうだ。
母はそんなことはあるはずはない、とわかっていても、不安で、出産後もしばらくは哀しくてならなかったそうだ。
なるほど、私たちが子ども時代、別の歯科が出来たとたん、うつったのはそういう理由だったか。
小学生の私にとっては、「いつか目が見えなくなるかも」と考えるのは辛くて、でもそのことを母に訴えるのは出来なくて、
学校に行けば、私が気にしていることに目をつけたその子が繰り返し言ってくるのもこわくて、
私はその頃にはまだ一般的ではなかった、いわゆる「登校拒否」をした。
一月ほどたって、私は自分からまた学校に行くのを決めた。
なにも言わずにただ休み続ける私を抱えて、半狂乱になっている母に父が
「おまえは一度でもあの子が休む理由をじっくり聞いてやったことがあるか」と怒っているのをこっそり聞いて、
母が私のせいで責められるのはイヤだと、母の痛みと私の不快を天秤にかけて、私には母の悲しみの方が重かった。
学校に行くと、その子が真っ先にやってきて、「おまえ、ずる休みしとったんやってな、せんせいがゆうとった」と。
私は、その子の「先生も言うとった」も、どうでもいいや、もし目が見えなくなっても、少なくともこのイヤな子の顔を見ずにすむ、
そう思って、私の中からその子は消えた。物理的に見えなくなった気がする、思い出した記憶もそこで途絶えている。
あの子は、その後どうなったのか、
地元の情報は全て知っている幼なじみに聞いても「そんな子いたかな?」「地元の子やないわ、中学ぐらいでどこか転校したんと違う?」と。
子ども時代の哀しみを思い出せるのは、今、幸せであると言うことだ。
あまりにも傷つけられて、封印したことでいつまでも残っていた記憶が年を経て浮かび上がって、
それでもうこの記憶はなくなるんだろう。
私の心に長く食い込んでいた記憶は、私から消えた後、どこに行ってしまうのかな。
私はそれが失われるのを哀しいと思う。何故か、私を傷つけてきた相手に悪いと思う。
さて、当然のことではあるが、私の目は今でもよく見えている。
呪詛は呪詛でしかなかった、と言うはなしだ。