「広告」から。

日記の下に「更年期障害」関連のリンクが。「ルテイン」とか「ブルーベリー」とか。「命の母A」ってまだあるのね、、
いたれり、つくせり、さすが、「ハテナ」(なんちゃって)
ま、この手の「食べるもの」で何とかなる!とは思わない私はゆるゆるしょぼしょぼ、いずれ必ずくる「更年期」とつき合うわ。
「更年期」と言えば、身内の内科医が、「最近は昔なら「老化現象」と称した症状に病名がつくようになった」
「50過ぎて体調不良を訴えてくる人に、うっかり「それは老化です」とはいえない」とこぼしたので、
知り合いが更年期障害らしき人にそれをほのめかすとキレられた話をすると、
「それを医者がやったら「ドクハラ」だ、「セクハラ」だ、と大変なことになる」
なるほど、そのための「病名」か、肉体が確実に衰えている事実を受けとめることも出来ないほど人間は幼くなったのだな。
先日、ミセスのバックナンバーで、
細谷亮太さんが山田太一と「治らない病気があることを理解してもらえなくなった」というような対談をしていて、
印象深かったのが、
「昔は入院したら「死ぬのか?」とみんなが思ったけれど、今は「家でいるより早く治るだろう」と思っている、
医者が入院させるときはこのまま家にいたら「死ぬかもしれない」という人を入院させているのに」の話で、
これは小児医療にかんする対談だったのだけれど、老化現象さえ克服できる、と考えるのが「現代的」であるんだろう。
以前読んだ「ビューティ・ジャンキー」で確か、「アメリカ人は老化すらも克服すべき病と考えている」とあったような、
日本はアメリカ的なのだなあ、それがいいのか、悪いのか。
小児医療に話を戻して、幼い子どものことならば、万分の一でも可能性がある方に私も賭けたい、と思うが、
それが病児自身に大きな負担をかけることになるのなら、残り少ない命を充実させることを考えてもいいんじゃないか、も、ひとつの考え方だろう。
「治らない病気なんてない、は、ウソ」と言う事実を受けとめる覚悟も必要なのだな、
でも、親の立場として思い切れるかなあ、、自分のことではないからなあ、、自分の命であれば、ある程度好きに出来る気はする。
細谷亮太さんは長い間私の「育児の師」であったので、この対談は複雑な気持ちで受けとめた。
「あきらめる」は一定年齢に達しないと出来ない気がする、でも一定年齢を過ぎても出来ない人もいる、
「あきらめる」も学ぶべき項目なのかもしれないな。