猫猫大先生の「荒涼館」、、、?

検索記録にディケンズの「荒涼館」があってみると、有名な「猫をもって猫を償え」大先生の7月15日の日記に行き着いた。
しかし、そこにわたしがまったく読んだことのない「荒涼館」の内容が記されていて、思わずちくま文庫の4冊を引っぱり出してきてしまった。
なんといっても猫猫大先生は、某「大学」の先生でいらっしゃるので私の記憶ちがいか、はたまた、読み間違えか、と確認しているのだが
やはり、この記述は納得できない。抜粋してみる。


>『荒涼館』が成功したのは、不美人を主人公に据えたからであろう。
ホモソーシャル寄りの男というのは、美人に怨恨を抱いていることが多いのである。
その『荒涼館』でさえ、最後に老ジャーンディスの求婚を断ってしまうあたりが、
私には不満で、あれはディケンズが老ジャーンディスと同化して、女性嫌悪を発揮したからだと思う。 


「不美人を主人公」とあるが、たぶんところどころの語り手である「エスタ・サマソン」のことを言われているのであろう。
しかし、ネタバレになって申し訳ないが「エスタ・サマソン」は美貌で知られる上流夫人「デッドロック奥方」の隠し子であり、
その容貌が見間違われるほどよく似ている描写は随所に出てくる。
(それがディケンズを読む場合の「ミステリ風味」として味わい深いのだが)
ちくま文庫の「荒涼館」(青木雄造・小池滋訳)の第1巻、p25の最後の数行では、デッドロック奥方の容貌を
「彼女の美貌ーそれはもともとみめのうるわしさというより、むしろ可憐美と言ったたちのものであったが、、」とあるものの
それでも「不美人」と言えるかどうか、
エスタ・サマソン」が自分を表現するとき、たびたびへりくだって妙に自分を卑下する表現を使うがそれを真に受けて「不美人」と見なすのは、
私には読み取りが浅いのではないか、と大先生の読解能力を疑いたくなった。
そして、「最後に老ジャーンディスの求婚を断ってしまう」は、
エスタ・サマソン」はこの「求婚」は受け入れているのを、老ジャーンディスの方が
「「荒涼館の主婦になってほしい」とは、実は、「新しい「荒涼館」の幸せな主婦になってほしい」ということだったんだよ」と、
老ジャーンディスのほうが、自分の言葉の意味を変えてしまう、
つまり「エスタ・サマソン」が老ジャーンディスの求婚を断ったわけではないのだが、なぜ、猫猫大先生はこのように書かれているのか、
くわしくは前出の「荒涼館」第4巻p336から続く「エスタの物語」を参照していただきたい。
この大先生が「荒涼館」に関して日記につづられている部分を拾い読みさせていただいたところ、
先生の「荒涼館」の評価は非常に高くていらっしゃるが、果たしてちゃんとお読みになっていられるのかどうか、
私の知らないどなたかを「憎し」的な記述に再三「ディケンズ」を用いられているようで、そのディケンズ評がはたして正確であるのかどうか、
もちろん、博識な大先生の理解は私のような浅薄なものには考えつかないほど深いのだろうが
世間一般で、この大先生の「荒涼館」の読み取りが受け入れられるかどうか、わたしは疑問に思う。
そもそも、ディケンズの長編を読む人間など、ほとんどいないに等しいので、なにを書いても誰にもわからないのだろうが。
それにしても、正直「本当に読んだのぉー?」とゲスの勘ぐりをしたくなる内容だったので、とりあえずここに記しておく。
ディケンズホモソーシャルであるかどうか、私は彼の女運(妻、母親、愛人を含める)の悪さを女性嫌悪に持ち込んで読む趣味がないので
なんともいえない。
ただ、それを言えばすべての小説は女性嫌悪が読み取れるのではないか、
まるで昔のフェミニストが言い出しそうなことを猫猫大先生が書かれているのは印象的だ。
長くなったので、最後に、猫猫先生が「荒涼館」を高く評価されているのには賛同するものの、
私は「リトル・ドリット」をディケンズの最高傑作と薦めて締めくくることにしよう。
いやー、検索記録って、本当に、面白いですね〜(故水野晴朗調)
追記;日本のウィキペディアの「荒涼館」も読んでみたが、はたしてこれは読んだひとが書いたのかどうか、
「荒涼館のお岩さん」というタイトルで、非常に面白い考察を書かれた方も
(日本の解説を書いた人は、たぶん「荒涼館」を読んでないですw)とあるので、参照してもらいたい。
http://b.hatena.ne.jp/chazuke/