「眼光紙背」を読んで。

「希望は戦争」氏は、相変わらず「書く」のがうまい。
「子どもを守りたい親の気持ち?知るか、そんなもの!」とは、もう「タイトル」からして「かっこいい」。
「こんな愚鈍な親の子どもであっても心配している愛情あふれるボクちん」なパワー、炸裂だ。
ブクマを見る限り、最後の決めぜりふ
「今の日本において守られなければならないのは「子供の健康」であって、決して「子供を守りたい親の気持ち」ではない。
そのことを絶対に見誤ってはならない。」
に、すっかり「悩殺」されている人も多い。
彼の用いる言葉は、どれもすべて、じつに「かっこいい」、それを支持しただけで「正義」の側にでもたてるかのようだ。
親という立場で、この記事に賛同すれば「私は愚鈍な親ではない」を宣言することにもなるだろう。
しかし、この記事の大いなる偏見や無理解がより不安定な親の気持ちを追いつめる危険に気がついている人はそれほど多くない、そこが問題だ。
記事には
「「子供を守りたい親の気持ちをないがしろにしないで」という旨のツイートを目にしたことがある。
そのツイートを私は、「なるほど、ある種の人たちにとって、守りたいのは「親の気持ち」であって、
あくまでも子供は気持ちを体現するための器に過ぎないのだな」と読んだ。」とある。
「親の愛情」そのものを彼はまったく信用していないらしい。
「子ども」を「器」と見立てるその発想は、彼自身が、赤の他人の「子ども」を
自分の「バカ親の子どもでも心配している素晴らしい「正義の味方」のオレさま」をあらわす「道具」である証拠だろう。
自分の中にない感情は、相手の中にも見いだせない。
彼の「かっこいい」言葉は本当にそれが必要かもしれない親のところに届くことはないだろう。
子どもへの愛情を信じなければ、親が心を開くことは決してないのだから。
ブクマを見ていると「子どものため」を「口実」にしか見ない人間がこんなにも多いことにめまいさえ覚える。
どれほど、子どもを育てにくい環境にわたしたちはいるのだろう、どれほど、愛情が貶められているのだろう。
何かがあればすべて「親のせい」と非難される中で、奇妙なオマジナイに走る親を私は責められない。
私に自然派志向はまったくないが、この先、私は子どもを道具にされ責められる側の親の立場に立とうと思う。
「愚鈍な親」とバカにして、ほかの親からも孤立させることで、より深刻な事態に向かうことを出来るならばとどめたい。
子どもを救いたいのなら、まず、その親に寄り添うこと、
18年、子どもを育ててきて、さまざまな親に出会ってきた私はそれを学んだ。
本当に大切なことはなんだろう、少なくとも、暴言と無理解で、親の愛情そのものを疑わせるような記事を書くことではない。
本来、助け合わなければいけない親どうしを二分するような巧妙な記事の書き方に反吐が出た。
相変わらず、「眼光紙背」の書き手にとって「希望は戦争」であるらしい。
親どうしを対立させて、その後、残るものはなんだろう?なんにもない、
「オレたちはやったぜ」という「かっこいい」気分だけが残るのかもしれないが。
もう一度、内田樹先生が書かれた「暴言と知性について」をよく読んでほしい。
あの記事があれほどのブクマを集めながら、その言葉がまったく浸透していない現実にうんざりした。