雑談。

土曜の夜にうっかり「眼光紙背」を読んでむかついて眠れず、朝早くに目がさめてむかつきを記したが、気分が悪かった。
どんどん増えていったブクマコメントには絶望さえ覚えてしまった。
その書き方の巧みさに素直に従う人が大勢いる現実に、「知識」ってなんだろう、と、アクセサリー程度でしかないのかもしれないな。
「希望は戦争」氏の「うまさ」はトンデモ科学系に引きずり込む本のやり方に似ていると感じる。
「私に賛同するものこそが、善」と匂わせ、読み手のプライドをくすぐる巧妙さは、そっくりじゃないかな。
彼の意見にためらいなく賛同する人たちと、トンデモ系にひっかかる人に違いはほとんどないと思う。
あの「読みやすさ」「巧みさ」は危険だと、気がつくにはその手法にしばらく騙されないとわからないんだろう。
昨日、「ニッポンの書評」の最後の、ひょっとしたらそれまで書いてあった内容より濃いかもしれない対談を読んでいたとき、
「うまい書き手」って何だろう、とふと思った。
私がもう20年以上読み続けている書き手は町山智浩小倉千加子で、なぜずっと読めるかと言えばやはり「読みやすい」。
読みやすく書く、その「うまさ」の危険が同じひとの書くものを長年読み続けていたら、しみじみわかってくる。
多くのひとに読まれることを見越して仕掛ける言葉の罠に、遅ればせながら気づくこともあって
時々その罠に無邪気にひっかかっている人を見かけると「読ませる」側の責任を問いたくなることがある、
まあ、それが私の単なる「気のせい」「電波」と言われたら、そうなんだろうけど。
罵倒系の文章は昔、町山さんが属していたグループの書き方に影響されてると感じることが時々ある。
そしてそれは常に「似て非なるもの」で、そのまずい書き手がなぜかおのれに酔っているのがわかると吐き気すら催す。
そういえば、トヨザキ氏の本は私はそれほど「罵倒」とは思わなかった、トヨザキ氏はさすが「うまい」書き手だと思った。それだけにやはり「危険」、
私の雑な頭の中では「うまさ」は「危険」と常にともにある。頭の悪い人間はそういう考え方でもしないと自分の身を守れないものよ、、
「読みやすさ」や「うまさ」は書き手にとっても危険じゃないかな、最近、そう思う。
もうすぐこのネット日記も夏休みにはいる。不愉快な「うまさ」は忘れよう。