心情。

ネットでケストナーの言葉を紹介されているところを読んで、ケストナーナチス時代の人間だったんだと初めて知る。
あいにく「飛ぶ教室」は読んだことがないが。
私はトーマス・マンの「トニオ・クレーゲル」とナチス時代の「金髪碧眼」の偏愛ぶりを一致させて「ポン」と納得したばかりだったりする。
子ども時代、好きだった北杜夫旧制高校生時代に愛読した書だというので中学生で読んでみたんだが感想は、ハテさっぱり。
紳士は金髪がお好き」ってな言葉をぼんやり思い出したぐらいで、なんでこうも金髪碧眼の人間に執着するのやら、トニオの心情など、さっぱり理解できなかった。
もちろん、北杜夫がこの本のどこにそんなにひかれたか、中学生だった私にわかるはずもなく(実は今でもわからない)
ただ、文化的に持つコンプレックス的な何かを今なら見ることができるんじゃないか、などと
もう一度、読み返してみようかな。
現在、なぜ私がナチス時代に興味を覚えているかというと、今の時代の影響なんだろう。
極限状態で生きる人間は何を求めるか、何に流れるか、ナチスを発展させた当時のドイツの状況を考えれば、
国民全体が脅かされ、自信を失っていた時機だったと思われる。
そういうときにから元気な言葉を聞かされれば人は簡単にそれにすがる、(「パンドラの箱」の底に残っていたのは「希望」というのは皮肉な話かも)
それは必要な作用であって、ある程度になれば「なんでこんなものに?」と目がさめる。
ただナチス時代の場合、物理的にどうしようもないところまで目をさますわけにはいかなかったのが悲劇的だ。
そうならないように、どうすればいいのか、今をどうとらえればいいのか、少し考えてみようか、と、
放射能汚染が神経質なまでに叫ばれる中で、逃げようのない現実とどうつき合うか、
「から元気」の言葉にすがるには、私はもう年をとりすぎているので自分で答えを出そう、と、世界の片隅でひっそり思うのでした。
震災、原発事故があって以来、私は子どもがいて本当によかった、と心から思う。
子どもがいるからこそ「あきらめる」ことはないのよね、世界に対して。
私は子どもに「こんな世界に生み出してごめん」とは思わないのよね、
「こんな世界をあなた自身の手であなたの人生をよりよくしていきなさい」と
それが出来るのは「生きているから」「生まれてきたから」と思うのよ、
人間が世界を変えるのだもの、その世界で生きていくのはやはりわくわくする素晴らしいことだと私は信じる。
未来を信じることが出来ないほど、勇気のない人間にはなりたくないし、子どもたちになってほしくない。
悪い方にばかり目を向け「これが現実だ」とことさらさめた言葉で語ることに意味は見いだせない。
その言葉の反動に多くのひとがどこに向かっていくか、それでいて、その反動を決してとめることが出来ないのよ、
「知識人」を自賛する、単に「自分がまちがうかもしれない」ことだけを恐れる人間にはね。
「から元気」な言葉と「冷静」を装う言葉の間にどうバランスをとって生きていけるか、これから考える。