とちゅうけいか。

ヒトラー 最後の12日間」の映画評をネットで見ていると登場人物の一人である若い女性秘書の戦争責任を問うているものがあって、
あれれ、この人はそれが気になるか、と印象に残った。
私はそういう点はちっとも気にならなかったなあ、、、というわけで、今「私はヒトラーの秘書だった」を読んでいるんだが、
やはり、私はこの若かった女性に同情的、というか、「無理だろ」としか思えない、その時代に生きていればたいていの人間が無理だろうなあ、と
中年であるわたしは思ってしまうのよね。
せいぜい、「ナチス、ちっ」と心でつぶやくくらいだろうね、分別盛りであるはずの中年期の人間であっても。
それが「生きる」ということだと、いやというほどわかってきているわけだし。
「私はヒトラー〜」は半分くらい読めて、相変わらず私はどうでもいいことばかりが気になったりする。
ヒトラー菜食主義者だっただなんて、知らなかったわ、今でいえばマクロビ信者か。
しかし昔(か、今でも欧米はそうなのかもしれないが)何でか「卵」は食べているのよ、「目玉焼き」って、卵だよねえ、、
それで本当に菜食主義といえるのかどうか、ベジタリアン、っていつからある言葉なのか、調べたくなったな、
なんにしろ、肉、食べたほうがいいですよ、平和主義者になれるかも、なんちゃって、
マクロビは危うい、などということが無知なおばはんの頭に刷り込まれたのでした。
おばはん、食いもんのことしか考えていません、考えられません。
「私はヒトラー〜」の話に戻って、私がこうもこの当時たいへん若かった女性秘書に「戦争責任」を問うつもりにまったくならないのは、
たぶん、この女性の(当時の)年齢が、自分の娘の年齢に近いからなんだろう、ウチの子がこういう立場だったとして、
戦争について、そんなに深く考えられるかな?いや、無理だろう、無理であってほしい、生き延びるために、
と、私は「親」の立場でこの人を見てしまうんだよね。
それから、ま、私もドイツと同じく戦敗国の人間だし、自分のしたことを「許す」ことでしか、生きていけない、
先日のいがらしみきおの文章では日本人が簡単に「許しすぎる」ことに疑念を抱いているように私には受け取れて、
自分の被害を及ぼした人間を「許す」ことくらい、「許されて」もよかろう、とわたしは思ったが、
自分がしたことも「許す」、その「ゆるさ」も生きるのには必要だ、悪いことではあっても、とも考えるのでした。
でも、簡単に許してもいけないのは確かだろう、ただ、そのまなざしは戦敗国にだけ必要か、とも思う。
ヒトラーが完全悪と見なされたのはホロコーストを公然と引き起こした人間であるが故だろうが、
もし、あの悪名高き「収容所」が存在しなかったとしたら、ここまで化けもの扱いされることもなかったろう。
でも、かの収容所を経験した人間の末裔たちがイスラエルで行っていることは、ナチスの化けものに似たところはないか、
ならば、ナチスの彼らを「化けもの」とかたづけずにもっとよく知るべきか、と今になってわたしは思うわけだわ。
ヒトラーの女性秘書は非常にヒトラーを好意的にとらえていて、実際、そばにいる人間に対してはとても親切で誠実な人間だった、と
私も想像がつくわ、そういう人だからこそ、困るんだよなあ、、、
困ったことに、独裁者は個人的には「いい人」だったりするものよ、そうでなければ、人はついていかないものね。
そういうことを、考えつつ、いよいよマジメな映画評を書くことからは遠ざかりつつあるのでした。困ったもんだ。