私信。

半年ほど、まったくネットをしない生活が続いて、ネットに戻ったところで何があるというわけでもないな、と思っていたところ、
忘れずに読んでくれていた方がいて、私が「いびつな年代」とぼやいた話に反応してくれて、感謝。
「それが言いたかったの」と私が感じたことをうまく言葉になおしてくれて、
わかってくれているなあ、うれしいなあ、と、涙ぐむ。(最近、涙腺がゆるい)
>>で、生めなくなった今、自分の立ち位置を確かめるには「生んだ親より上位に立つことの確認」しかないんじゃないか?。
そしてその手段は、親が子供のために手助けした「道」をことごとく否定することで、
あんたの親より私の方が「正しい」、だから「もし私が生んでいたら、きっと良い親になったはず。」
子供はいないけれどあんたら以上の親になれるのだから、今はいなくてもあんたらより「上」なの「上」!わかる?」って感じなんじゃないか<<

そういう「出来るけど、やらなかっただけ、やればゼッタイできたんだからね、ね、ね」って、なんでやるかなあ。
子供を持つ、持たない、ってそういうレベルで語るものではないってことが、
彼らにはわからないようで、「年をとる」ことすらも「無駄」であった存在が私にはむなしくなる。
40すぎたら、いろいろあるでしょ、あったでしょ、
人生の「ノーサイド」が見えてきた時点で、まだ、そういうことをするの?が、私の腹立たしさの一部なんだよね、、
たとえば、結婚して子供を持ってもずっと仕事を辞めずに頑張ってきたかつての同僚が
わあ、と驚くほどのポジションを得ていたりして、でも、それをうらやましがるのは、筋違い、というか、
かつての同僚がものすごく苦労して、私よりもはるかに努力をして、それで得たものなんだから、
うらやましがるのさえ「失礼」なんじゃないかな、少なくとも、わたしはそう思う。
私には仕事をしながら子どもを育てることは出来なかったし、そもそも、その能力がなかった、
でもその能力を持った人がこの世界には存在して、そういう人を私が「知っている」ということだけでも、
私はうれしくなるし、幸せにもなれる。
それでいいじゃないか、と「あきらめる能力」に決定的に欠けるひと、というのがこの世界にはいるね、
自分に欠けているものを受け入れることが出来る、というのも、年をとる醍醐味だと、わたしは思うんだけどねえ、、
彼らのことでぼやけば、ネタはいやになるほどあって、でも再々会う人たちでもないんで、がまんしているんだけど、
とうとう、ガマンできずにキレてしまった、まあ、私もいい歳して、ダメだ、ッてことで。
DINKSである彼らの年齢は彼らがいちばん楽しかった世代でとまっているようで、永遠に30前後でいるみたいだ。
ずっと「なんとなく、バブル」って感じで、「次はどこに行って、何をしよう」的な、
キューバはちょっと厭き気味で、じゃあ、今度は何をしよう、世界はまだまだ広い、と、楽しそうでよかったね、
じゃあ、もう私みたいなバカ女の子どもをいじるのはやめてくれ、と、本当に思うわ、
上の娘の下宿先を教えろ、とか言ってくるしね、、、(絶対、教えません)
ああ、グチは山ほどあるんだけど、とりあえず、この辺にしておこう。
つまらないぼやきをすくい取ってくれてありがとう。