叫び。

トリアージ」関係から、「いのちの奪い方」というエントリを読ませていただいた。
ここで、「子供たちにたべる事の大事さを伝える」「命の大切さを教えるために必要なことだ」
「食べ物がどうやって手に入れられているのが教えてやって欲しい」
「食べるためには、他の生き物の命を奪わなければならない事を伝えて」と言う保護者を取り上げられていて
私はこの保護者達を笑えない、
この保護者達が自分がもってないものを子供に与えることを強要されているのがわかるから。
本来は、「ボランティアー」の学生ではなく「親」が「子供」と共に鶏を絞めるべきだった、
そうでなければ子供は何一つ学習することはない、「誰か、「キャンプの人」、が鳥を殺してた」でしかない、
「そんなこともあったような」としか記憶には残らない。
子供にもがく鶏を押さえつけさせ、どのようにその命を奪うのか、その血はどのように流れるのか、それを親子でふれさせて、
そのあとその肉を味わってこその「経験」なのだけれど、親自身がそんな「経験」をしたことがない。
それでも「子供のためには自然に触れさせるのが一番です」と「言われたら」それを信じるしかない、
「あのときああしなかったから、子供がこうなった」になるのが「怖い」から。
子供の頃、何かの本で、「自分がもっているもの以外他人には与えられない」と読んだことがあって、
その時は「何を当たり前のことを」と思ったが、子供を育てていてこの言葉を痛感するようになった。
自分が持っている能力以上のものは与えられないのだ、それでも世間は「完全」を親に求める。
自分がもってないものまで子供に与えることを求める、親となった限りは「完全」にならなければいけない、と説く。
結果、親は「それらしいふり」をして、「子育て」も一種の「パフォーマンス」となってしまう。子供はそれに「つきあう」だけ。
育児が「見せ物」とされている現状で、それを私は責められない。
親の在り方と子供の「出来」はいつも絡めて語られる。親が「バカ」だと子供も「バカ」とはもう世間の「常識」となっている。
ネットでもマスコミでも「モンスター親」なり「バカ親」なりの話題がどれほど盛り上がりを見せることか、
口々に罵倒を浴びせるあなた自身は果たして「完全な人間」か、そしてあなた自身が育てる子供は完璧な子供となるのか、
それを考えれば、決して育児に四苦八苦する親を非難することなど出来ないはずなのに。
私はネットで私が「親」であることを罵倒した人間が完全なる人格者だったことを確認したことがない。
ただ「バカ親」のレッテルを貼り付ければそれをした「自分」が「世界で一つだけの花」になれると信じているだけだ、
人を差別して「下」に見れば、自分が「上」にあがれると「信じている」だけ、ネットでくだらない「自己実現」をはかっているだけ、
これであの歌の「欺瞞」を嗤うとは、いったいどこまで「道化」なんだろう。
そんなくずでさえ、現実に親をする人間を愚弄して凱歌をあげる、これが「現実」。
私の知る限り「誰からもほめられる」育児法なんて、ない、人がそれぞれ違うように状況は常に違う、
育児は時に「トリアージ」的なことすら求められる過酷な状況となることもある。
親としての在り方を問うのは簡単だ、誰でも、「バカ」でも出来る、
ただそういう人間は本当に「親」として「完璧」になれるだろうか?「完全な子供」を育てることが出来るだろうか?
多分、出来ない、出来るのは子供を持たずに親としての在り方をさも自分が完全であるかのように書くことだけ。
「いのちの奪い方」のキャンプの話しに戻せば、書き手の方がもっともうんざりしたのは
「命の尊さを知る」を「教える」という親の押しつけがましい「パフォーマンス」に子供がつきあっている、
その馬鹿げた親子「猿芝居」を目の当たりにしてしまったことかもしれない、
保護者の、「私は、こんなに素晴らしい「育児」に取り組んでます!」のために「無意味」に命を奪ってしまった、と。
その気持ちはわかる、そんな親のためにあなたの手を汚させて心から申し訳ないと思う。
でも、多分あなたはその保護者達が与えられなかったものをきっと子供に与えられるはずだ、
だからその経験は無駄ではない。あなたが子供に与えることの出来るものが、これで一つ増えたのだ。
それで、その保護者の愚かしさを許して欲しい。
時々、私は子供を持った私を許してくれと、誰彼かまわずはいつくばって懇願したいことがある。
私がどれほど愚かであっても私の子供と私は別な存在だ、どれほど愚かな私が育てていても子供は健やかに伸びていく、
それは私が育てているからではなく、子供が自ら育つ「力」をもっているからだ。
私が子供を「監視」していたとしても子供はその「監視」すらも養分にして自分が必要とする「光」を探す。
完全なものを与えなくても子供は必ず育つ、愚か者である私ですら、それを確信している。
私は親をこれ以上責めるのはやめてくれ、と訴え続けようと思う。
親を締め上げることで実は子供をも手にかけようとする過酷な世界で、これから私の子供は大人になるのだから。