ブクマコメントから考えた。

こちら(http://d.hatena.ne.jp/chazuke/20080313)にazumyさんから
「公教育はなぜか子ども一人一人の能力に差があることを認めない。そこにゆとりがない。」(http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/chazuke/20080313)のコメントをいただいて、思ったことを少し。

昨日中学の卒業式で、私が学校に行ったときは珍しくパトカーも警官も見かけず、式でも恒例の不良のヤジが飛ばず、
どころか、「特攻服」を着た不良君達も全くいなかったので、「○中もおとなしくなったもんだ」と少しさびしかったりして、
中学の外で必ず聞こえる「ぶぃんぶぃん」とか「パラリラパラリラ」とかも全くなかったので、式はしずかで感動的だった。
「答辞」はうちの中学では必ず生徒会長がすることになっていて、彼が涙ながらに素晴らしく中学生らしい内容を読み上げて
選抜された在校生の中の1人(男子)がもらい泣きをしてずっと式が終わるまで泣きじゃくったりして、
鬼母の目にも涙、だったけれど、最後の学活を見学しようと体育館の外に出ると、
校門前にはパトカー、ずらりと多くの警官が並んでいて、特攻服の子供を中に入れないようにしている。
なんとか入ろうと走り込んでくるものは素早く追いかけられてきっちり捕まえられたりして、子供と帰るときも
警官と押し問答をしていたのでいやはや、気の毒な。
子供は「あんな変な格好して何をするかわからない子を中に入れたら式がめちゃくちゃになる」
「こんな時だけ学校に来るような子なんて式に出る資格なんてない」と、まあ、「道理」だな、
大騒ぎの卒業式もそれなりに味があるんだけどな、と大昔同じ中学で無茶苦茶な卒業式を経験した母は思ったのでした。
当時は校門前にヤンキー車が集合して、厳戒態勢で武闘派な先生が身体を張って中に入ってくるのを止めてたもんだが
今は身も蓋もなく校門前にパトカーか、昔は少々離れたところに隠れるようにパトカーを止めて、警官も身を潜めてたんだけどな。
(中学のすぐそばの私の実家の裏に、など)
義務教育中の子供が学校に行く「権利」は平等だ、
でもその権利を都合のいいときにだけ行使することは世間一般では許されない。
ただ、不良君達はそれを学んだことがない、こうした基本的に「下世話」な「常識」は「親」が教えるものだから。
そういう「親」が彼らにはいない、悲しいことだ。
私は子供の能力とは微差はあってもほとんどが「同程度」だと思っている。
ごく少数、公教育が設定する「学力」に「あわない」もの、反対に「ぴったりあっている」ものがいるだけだ、
そういう存在に、もちろん今の公教育は対応していない。
そこも問題なのと、やはり「公教育」は多くの子供達が利用する「公立」校を対象にしているので
「1人1人の能力の差」は、言い換えれば「それぞれの家庭の差」であることを言及するのをためらっているのではないか、
「一億総中流」幻想に支えられた「意識」のままで「公教育」を行おうとしているところに「無理」がある、と私は思う。
親が親として機能していない子供達から、熱心な家庭の子供まで、それを「同一」に考えること、
もしそのままであくまで「教育」を行うつもりなら、「学校の環境」をもっと整えなければならないはずなのだけれど、
それを無視して「教育バウチャー制度」など何かをごまかしているような感覚で公教育をいじられては
「機会の平等」なんてまるきり嘘になる。今以上に「建前」になる。
ちょっとまとまらないので、ここまで。
遅ればせながら、いつも考えさせるブクマコメントありがとうございます。
「ゆとり」とはどうあるべきか、また考えてみようと思う。
男の子が卒業式でおおっぴらに泣けるようになった、またそれにもらい泣きしていても不自然じゃなくなったなあ、
男の子が涙を浮かべてもごまかす必要がなくなった、これは時代の成果なのか、教育のおかげか。
在校生で泣きじゃくっている子を周りの子達が肩を抱いたりして慰めているのに泣けた。